Pavane pour une ・・・・
中つ国の自由な民の未来がかかっている長く辛い旅へと出てゆく9人を見送り、『裂け谷』の主、エルロンドは壁にかかる絵に目を移した。
壁全体を覆うその大きな絵は、このエルフのための隠れ処である『裂け谷』に満ちる柔らかな日の光に包まれていた。
3000年前、絶望と恐怖に包まれた世界を冥王サウロンから取り戻すため、エルフと人間の最後の同盟が結ばれ、ともに戦った・・・・その一場面が描かれていた。
「エレンディル・・・」
エルロンドは絵の中の人物、人間の王に話しかける。
「また・・・戦いが始まる。闇がまた、呼び声をあげているのだ・・・」
3000年前――――太陽の第U紀。
自由の民をつぎつぎに奴隷とするサウロンを倒すため、エルフの王ギル=ガラドは人間にともに戦うことを呼びかけた。
幾度かの折衝の末、ようやく同盟が結ばれ、エルフの軍と人間の軍がひとつの場所に集結し、明日の日の出とともに総攻撃をかけることとなった。
決戦の場になるであろう滅びの山を睨む砦には今、多数の者がいるにもかかわらず、静寂に満ちていた。
しかしそれは、痛いほどに張りつめた空気・・・触れれば手が斬れそうなほどの緊張が支配する夜を、皆過ごしていたのだ。
そんな中、エルロンドは砦の端の使われていない物見台の上にいた。別に見張りをというわけではなく、ただ外の空気が吸いたくなっただけだった。
星の光が月のように見えるほど明るく輝く星月夜。
明日は、この地を蓋い尽くすであろうその『戦い』という行為とは裏腹に、高く澄んだ空が広がるのだと・・・・・そんな事を思って、エルロンドの口の端に微かな笑みが浮かんだ。
ふと、眼下の城壁に人の気配を感じ、目を転じる。
未だ黎明の見えぬ夜の闇の中でも、エルフである彼の目にはその人影が誰であるかすぐにわかった。
ゴンドールの王、エレンディル。人間側の中心的人物。
エルフの王ギル=ガラドの命を請けて、伝令として何度も会っている相手だ。
そして少なからず、興味を持っている相手だった。
エルロンドの見守る中、それとは気付かぬらしいエレンディルは両腕を高く広げ、何かに耳を澄ますかのようにじっとしていた。
しばらく後、諦めたように腕を下ろし大きく息をついたエレンディルに、エルロンドは声をかけた。
「ゴンドールの王よ。どうされた?」
突然の声に、エレンディルは慌てて辺りを見回した。
背後にそびえる物見台の上に、砂を刷いたかの様に輝く星を背にした影を認め、目を凝らす。
「おお、エルロンド卿か」
安堵の声には笑みが含まれていた。
「そなたこそ、その様な所で何を?」
辺りを満たす緊張の糸を掻き乱さぬよう、声を潜めての問い。それを察して、エルロンドは物見台の囲いに足をかけた。
ふわり・・・と、エルロンドの身体が宙に舞う。
星明りの中、戦装束の鋼が光を弾き、瑠璃紺の嶺布が翼のように風をはらんで広がった。
そのまま、いささかの塵も乱さず、エルロンドはエレンディルの前に降り立った。
長く黒い髪がわずかに遅れて肩を覆い、鶸色に光を放つ戦装束の胸へと滑り落ちる。
その様子に魅入られたように、エレンディルの指がエルロンドの髪に触れ、そっと撫ぜた。
「何か?」
エルロンドは頭を退くようにして髪をはらうと、いささか硬い声で問いかけた。
「あ・・ああ。許せ・・・」
狼狽えながらも、エレンディルの声にはやはり笑みが含まれている。
「そなたたち、エルフというのは・・・ほんとうに」
言葉の続かない人間に怪訝そうな顔のエルロンドに、エレンディルは微笑みを向ける。
「ほんとうに・・美しいな」
囁くように続けられた言葉に、エルロンドは小さく息を漏らした。
「貴方がた人間は、エルフというものに夢をお持ちになっているらしいな」
「持ってはいけないのか?遥か古より、永遠の命を約束された種族。眠る事もなく、闇に目を塞がれる事も無い。他の生き物の命を狩る事も無く、若く美しく、その動きは地上に縛りつけられる事無く軽やかだ。限られた時間を、地上に繋ぎ止められて生きる人間には、まさに暁降の一瞬に見る美しい夢そのものだ」
「ゴンドールの王よ・・・」
溜め息交じりに呟くエルロンドを、エレンディルが手を上げて制する。
「エレンディルと。余が王であることは、今ここでは何の意味も無い事だ」
「では、エレンディル・・・夢はあくまで夢だ。儚く、朝露に消えてしまう・・・」
「その様なこと」
エレンディルは楽しげに肩を竦めて見せる。
「存じておるわ。だからこそ、だ。だからこそ、夢を見たいのだ・・・美しい、な」
そう言って、うっとりとした笑みをエルロンドに向けた。
エルロンドの口から笑みとも溜め息ともつかぬものが漏れ、微笑みかけるエレンディルの顔をまっすぐに見返した。
「・・・酔狂な御仁だ」
「それ故、王などやっておる」
その応えに、ついにエルロンドの唇にも笑みが浮かんだ。
「それで?その酔狂な王は、このような刻限に何を?」
気恥ずかしさを内包した沈黙を消すように、エルロンドは問いかけた。
「ああ・・それはな」
エレンディルは僅かに言いよどむと、名残り惜しげにエルロンドから目をそらし、遥か地平の果てに視線を泳がせた。
「・・・そなたになら聴こえるやもしれぬな。この世の総てのものが、声をひそめて祈っておるのが・・・」
「祈っている・・・?」
「そう。どこかに良い国が在る事を知っておるのだ。そこへ往けるようにと・・・」
「・・・・・・・・」
人間の王の言葉に、永久の地を識るエルフは声も無かった。
「そのように困った顔をせずとも良い。卿よ」
「エルロンドで結構」
「そうか」
エレンディルは嬉しさを隠すことなく、満面の笑みを浮かべた。
「エルロンド。髪に触れても良いか?」
屈託のない願いに、思わず肯いてしまったのは、その笑顔にひどく心惹かれたからからに他ならない。
エレンディルの手が、躊躇いながらもエルロンドの髪をひと房取り、指の上を滑らせてゆく。
頬を掠めてゆく指を、エルロンドは目で追っていた。
「エルフの髪は、淡い燐光を放つような色ばかりだと思っていたが・・・」
その感触を愛でるように指を滑らせながら、エレンディルは呟く。
「そなたのは暁の前の夜の空の様で・・・誰にも益して美しいな・・・」
「エレンディル・・・」
「共に戦おうぞ、エルロンド。この世の総てのものが求める、良い国を取り戻すために。人間がこの先もずっと、そなたたち美しい者たちと良い関係を続けられるように。余はそれを、ここに誓うぞ」
そう囁くと、エレンディルは手にした髪に恭しく口付けをしたのだった・・・・・
時としてエルフは、死すべき定めの人間にひどく惹かれてしまう。
それはほんの一瞬の煌きにも似て、それゆえ心の奥深く、しっかりと焼き付いて消えることがない。
3000年たった今も、エルロンドはエレンディルの事を忘れはしない。
この世の総てのものが求める良い国を取り戻すための戦いは、連綿と続いているのだから・・・
それでも。
すでに彼はこの世の何処にも居ないのだと、そう思うと心はパァヴーヌの運びのように千路に乱れるのを感じた。
「今度こそ、決着を・・・エレンディル。この世の総てのものが求める国のために」
そう絵の中の彼に語りかけ、エルロンドは誓いをたてるように目を閉じた。
Pavane pour une・・・・
− END −