| ドイツを歩く 孫達の住む、ドイツハノーファーの周辺とベルリンを歩いてきました
期間 2019/08/07〜2019/08/21 歩いた距離 km
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| ドイツを歩く 五十首 服部俊介 |
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| 孫の住むドイツの町に降り立ちぬ夕日の沈む八月初め |
| 出迎えの変わらぬ息子の顔見つけ遙けく来たるドイツの地に立つ |
| ハノーファーの孫の家にて受くる風涼しく乾き寒けさえする |
| 孫の住む家の庭にはリスの出で猫に追われて逃げ遊びいる |
| ピアノある居間にはベットの我の部屋孫と三人シーツ掛けせり |
| くすり指ピアノ弾くには大事だと九歳の孫連打して見せ |
| 携帯は台風進路つぎつぎと示す時代なり ドイツにて知る |
| ハノーファーの駅の改札なけれども切符はいつも買いて乗りたり |
| ドイツ語で話しかけられ戸惑うも息子素早く小銭与えき |
| ハノーファーの一億円の家並ぶ街角過ぎれば孫の住む家 |
| ヒトラーの作りし広き溜め池は民を救いていま憩いの地 |
| 民のため溜め池作るもヒトラーは何千万の人を殺せり |
| ハノーファーの土曜にひらく朝市にりんご買い出し孫と一緒に |
| ふてくされ孫十ユーロ持ち朝市へ言い付けどおり買いて戻りぬ |
| 並木続く孫らのドイツの学校へ通う道なり ひとけなき夏 |
| ハノーファー王の庭園は夏の芝シンメトリックに満ち満ちており |
| 日柄良し ハノーファー王家の広き庭花嫁の馬車七つ待ちたり |
| ハーメルンの笛吹き男のカラクリは窓から子供ら連れて出でくる |
| ハーメルンの石を剥がして水道工事我らと同じ程度に埋める |
| グロテスクな貌のドイツのウナギ食ううな丼の味懐かしみつつ |
| 丘を超え地平線まで麦畑ポツリ家ありドイツの田舎 |
| アウトバーン八車線すべて車満ち極めて良しの運転マナー |
| 八車線アウトバーンはまっすぐに丘を抜け行きベルリンに続く |
| アウトバーン「百八十キロが限界」と子は右に寄りスピード落とす |
| ベルリンの壁再現せし通りあり緩衝地あり監視塔建つ |
| ベルリンの壁記念館で孫の書く英語の落書半分判らず |
| ベルリンの壁の下なるトンネルは今レンガにて行き先示す |
| 七十年戦争知らぬベルリンに孫に連れられ壁の跡歩く |
| 前を行く孫の手つなぐ妻あればリンデンの通りなお賑やかぞ |
| ホロコーストの本をほしいと孫いうに十ユーロ渡せばレジに走り行く |
| ベルリンの街の物乞い目に付きぬ汚れしシャツであぐらかきおり |
| ブランデンブルグ門くぐりすぐ戻るまたくぐり行く散歩の広場 |
| ベルリンに高きビルなし高きもの記念碑教会テレビ塔なり |
| ベルリンのカフェーのアイス四十ユーロ出せば子は硬貨にてチップ足す |
| KUMONにてドイツの孫ら漢字知り先生からはディナー招待 |
| 大型の二連バス乗りベルリンのリンデン通りに孫のお供す |
| ドイツ語に慣れし孫らは直ぐ訳す吾はダンケとう道引き返す |
| 四本の高き煙突残されしアウトシュタットの発電所跡 |
| 雷雨にてアウトシュタットで足止めをアウトバーンはあかねに染まる |
| ヒマワリの色に輝く教会はかつてナチスの障がい者収容所 |
| グローバルの進む民なりドイツ人大家の亭主イタリア人なり |
| グローバル化進む民なりドイツ人ホロコースト詫びナチスを詫びて |
| 考えの違いはいつもこの程度ドイツの四階我らは五階 |
| ハノーファーの搭乗検査終え振り向けば遠くの窓に孫が手を振る |
| ヘルシンキへ向かう機内に日本語を喋るは吾のみ三時間乗る |
| ヘルシンキ着きて降り口のアテンダントにダンケと言葉自然に出たり |
| パスポート差し入れ顔を撮られたりヘルシンキ出国あっという間に |
| ヘルシンキの乗り場番号追い行きて日本語耳にNAGOYA確かむ |
| 国境を閉ざさず出入り自由なる欧州連合の国を旅せり |
| 反ナチの白バラ・ショルの切手貼る孫娘(まご)の手紙を受取り見継ぐ 2021年ドイツから |
| 2021年7月1日 満83歳1日目 |
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