10 中国王朝の至宝   愛知

名古屋博物館       2013/06/01

舞台美術館の鑑賞


 
 中国の「夏」から「宋」までの王朝の至宝を見に行った。

 名古屋桜山の名古屋博物館。
 1王朝の曙 「蜀」と「夏・殷」
 BC2000年頃から、黄河中流域の中原には中国の初期的な王朝が誕生した。夏や殷。
 細緻で強靭な造形を備えた青銅器や玉器を作り、漢字の元となる文字をはじめて体系的に用いるなど、中国文化形成の礎となった。
 ほぼ同じ頃、長江上流域にあたる四川盆地、すなわち蜀と呼ばれた地域では、黄河流域の王朝とは別の勢力による国が形成された。
 肥沃な土地によりながら、人の姿をした神や各種の動物を崇め、金を多用した高度な文化をもつ古代蜀の王国です。
 四川(蜀)と中原(夏・殷)という二つの地域で形作られた特色ある文物を間近に対比することにより、異なる勢力が並存していた初期王朝期の多元的な中国文化の実態を照らし出す。

 2群雄の輝き 「楚」と「斉・魯」
 殷の後に中原を支配した周(BC1100年頃〜BC700年頃)の威光が薄れると、各地に諸侯が並び立つ春秋戦国の時代に。
 BC600年頃 鉄器の使用が始まる。孔子 BC552生まれ。
 黄河の下流域では、周の流れをくむ斉や魯が栄え、なお周の伝統を残しつつ、諸子百家といわれるような様々な思想・文化が花開した。
 一方、長江の中流域では、黄河流域の諸国とは風俗言語を異にした勢力、楚が隆盛を誇った。土着的な信仰を色濃く残し、神秘的な姿をした神や獣を崇め、古来の神話体系を護持するなど、独自の文化を展開。
 いまに残る青銅器や木漆器など、この時代の代表的な文物を選りすぐり、南方の雄であった楚と、中原の伝統に連なる斉・魯の文化を改めて比較しながら、豊穣な古代中国文化の諸相を浮き彫りする。
 3 初めての統一王朝 「秦」と「漢」
 BC221年、それまで黄河と長江の中下流域に覇を競い合っていた諸国は、西方から興った秦によって滅ぼされ、ここに中国史上初の統一王朝が出現。
 始皇帝による秦は、それまで国ごとに異なっていた文字や諸制度を統一し、中央集権国家を実現した。短命に終わった秦の次に中国全土を治めた漢は、秦の体制を継承、発展しながら国家体制を整備し、また儒教を奨励するなど、統一王朝の永続的な運営基盤を築くとともに、南北や西方へも勢力を伸張し、秦をもしのぐ広大な領域を支配した。
 意味を持った漢字は極めて有効だった。
 絶大な権力を背景に成立した秦の類稀れな破格の文物と、前後400年程にわたって全土を安定的に統治した漢の古典的な様式美が結実した文物を対照し、統一王朝下で展開した新たな中国文化の特色を見る。

 4 南北の拮抗 「北朝」と「南朝」
 漢が滅亡すると、魏・呉・蜀の三国鼎立を経て、晋による一時的な統一の後、華北と華南に王朝が対峙する南北朝(AD400年頃)の時代となる。
 華北では、北方民族が支配する王朝が続き、仏教文化が隆盛するとともに、間断なく流入する外来文化と伝統的な中原文化が融合し、従来の中国にはみられなかった清新な文化が勃興した。
 一方、華南では、中原から逃れた漢族が王朝を維持し、漢文化の正統を自負する中で、文化の爛熟期を迎えた。また、北朝や外来の刺激に触発されて、俑や陶磁器の様式に見られるように、伝統からの脱却を図ろうとする機運も芽生えた。
 北朝の大同(山西省大同市)、南朝の建康(江蘇省南京市)というこの時代の中心地域から発見された文物に焦点を当て、南北相互の交流も視野に入れつつ、動乱期の南北でそれぞれの道を歩んだ中国文化変遷の様相を対比する。

 5 世界帝国の出現 「唐」ー長安と洛陽
 南北朝の対立を終息させた隋(AD589〜 AD618)の後を受け、再び中国全土を平定した唐は、皇帝を頂点とし、その下に文武百官を秩序正しく位置づけ、地方の隅々まで行政機構を整備するなどして、強大な帝国を築き上げた。
 近隣諸国はもとより、遠く地中海沿岸地域からも入貢(外国の使者が貢物をもって入朝すること)が相継ぎ、諸外国との交易も空前の活況をみた。
 この時代の都であった長安(陝西省西安市)には、常時1万人もの外国人がおり、かつてないほど国際色に富んだ華麗な文化が開花した。
 副都として位置づけられた洛陽(河南省洛陽市)も、長安と同様、殷賑をきわめ、諸々の芸術活動が華々しく展開し、また、龍門石窟に代表されるように、仏教や道教の造像も隆盛をきわめた。この時代の息吹を象徴する長安と洛陽という二つの都の文物を取り上げ、唐文化の特質と中国史上における意義を探る。

 6 近世の胎動 「遼」と「宋」
 唐が滅びた後、五代十国(AD900〜)という小国が興亡した乱世となったが、それを収めたのが宋王朝(AD960〜)です。
 同時に、中国北部では契丹族が勢力を伸ばして遼王朝をうち建て、南方へと進出し、やがて宋を圧迫するようになる。
 遼は、漢族の伝統文化や仏教文化の影響を強く受けながら、そこに民族的な要素を溶け合わせて、金銀器や石彫に顕著に見られるように、奔放な力強さにあふれた独特の文化を生み出した。
 一方、宋では、漢族の伝統文化を深化させて、書画や陶磁器に代表されるように、深い精神性を備えた新たな境地を切り開き、中国文化の一つの頂点を現出。近世の胎動期ともいえるこの時代の南北の文物を対比し、中国文化の多様性と奥深さを眺める。
 

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