2016/03/23

意見・資料纏め へ戻る

難波津の歌、木華開耶姫と謡曲について

2016.3.21  服部

 

1難波津(なにわづ)の歌

 (1)難波津の歌と言えばこの歌と、昔から知れ渡っていたらしい。

 

 難波津の歌は、古今和歌集(*1)の仮名序で「おほささきのみかどをそへたてまつれるうた」として紹介されている、王仁(わに)の作とされる和歌。

 

難波津に  咲くやこの花  冬ごもり  今は春べと  咲くやこの花

 

応神天皇の死後、2人の皇子が互いに皇位を譲り合ったため、3年間も空位となっていたが、のちに難波高津宮(こうづぐう)において、そのひとりの大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)が即位して仁徳天皇となった際、その治世の繁栄を願って詠まれた歌とされている。なお、この歌の花は梅である。

 

(2)王仁(わに、生没年不詳)

百済から日本に渡来し、千字文(せんじもん)と論語を伝えたとされる伝承上の人物である。『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記されている。

 

(3)百人一首

難波津の歌は百人一首には含まれてはいないが、全日本かるた協会の競技の際の序歌(じょか)に指定しており、大会の時、一首目に読まれる歌である。歌人の佐佐木信綱が序歌に選定した。なお、その時は「今を春べと」に変えて歌われる。

 

*1 古今和歌集(平安時代前期の勅撰和歌集。全二十巻。仮名で書かれた仮名序と漢字で書かれた真名(まな)序の二つの序文を持つ。

仮名序によれば、醍醐天皇の勅命により『万葉集』に撰ばれなかった古い時代の歌から撰者たちの時代までの和歌を撰んで編纂した。撰者は紀友則、紀貫之、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)の4人である。序文では友則が筆頭にあげられているが、仮名序の署名が貫之であること、また巻第十六に「紀友則が身まかりにける時によめる」という詞書で貫之と躬恒の歌が載せられていることから、編纂の中心は貫之であり、友則は途上で没したと考えられている。

歌数は1111首。

2木華開耶姫

(1)コノハナノサクヤビメ(ヒメ)は、日本神話に登場する女神。

(一般的には木花咲耶姫。謡曲では木華開耶姫。また『古事記』では木花之佐久夜毘売、『日本書紀』では木花開耶姫)

 

 (2)日本の神話 古事記 天孫降臨から

 ・瓊々杵命(ににぎのみこと)の降臨

天照大神は日本の国を治めるため、自分の子である天之忍穂命(あめのおしほみみのかみ)を高天原(たかまがはら)から地上に降そうとするが、そのとき天之忍穂命に子が産まれたので、代わりに孫の瓊々杵命を三種の神器である勾玉・鏡・草なぎの剣を持たせ降臨させることになり、猿田彦神(さるたひこのかみ)を先頭に、天空にたなびく雲をかきわけ、天の浮橋から筑紫・日向の高千穂の霊峰に降り立った。

 

・瓊々杵命の結婚

ある日、瓊々杵命は、海岸で美しい大山祇命(おおやまつみのみこと)の娘・木花咲耶姫(このはなさくやひめ)に出会った。瓊々杵命はたちどころに咲耶姫に恋をして結婚を申し込んだが、一存では答えられないので父に話してくれと頼んだ。

そこで、さっそく大山祇命に求婚の意志を伝えると、大山祇命はおおいに喜び盛り沢山の引出物を添えて、咲耶姫と長女の石長姫(いわながひめ)をいっしょに嫁がせた。

 

瓊々杵命は石長姫を気に召さなかったため送り返したが、大山祇命は石長姫を嫁がせたことについて、瓊々杵命の命(いのち)が風雪に耐える岩のように安泰であることを願ってのことだったと言い、咲耶姫だけをとどめるなら木の花が咲きそろうほどの短い命となるだろうと残念がった。

 

・無戸室(うつむろ)での出産

木花咲耶姫は瓊々杵命と一夜寝床を共にして、夫婦の契りを結ぶ。咲耶姫はめでたく身ごもったことを瓊々杵命に告げると、瓊々杵命は、たった一夜の契りで身ごもったことに不信をいだき、自分の子ではなく誰か国津神(くにつかみ)の子ではないかと責めた。

 

これに対して、咲耶姫は、自分の身ごもった子が国津神の子なら出産のときによくないことが起こり、もし、瓊々杵命の子なら無事に出産できるだろうと言い残し、隙間をすべて壁土で塞(ふさ)いだ無戸室に入り出産の準備をした。咲耶姫は産気づいたところで室に火を放ち、炎の中で無事に三柱を産み落とし貞操を示した。生まれた子は生まれた順に、火照命(ほでりのみこと 海幸彦)、火闌降命(ほすせりのみこと)、彦火々出見命(ひこほほでみのみこと 火遠理命<ほおりのみこと>とも 山幸彦。初代天皇・神武天皇はその孫)と命名した。

 

(2)奥の細道 芭蕉

元禄2年(1689年)3月29日(新暦5月18日)、「けむり」の歌枕として名高い大神神社(おおみわ 室の八島)を訪れた芭蕉は、神道を心得る曽良から神話の縁起を聞き、次のように「奥の細道」に記した。

室の八島に詣す。同行曽良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也。無戸室(うつむろ)に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見(ほほでみ)のみこと生れ給ひしより室の八島(古くはかまどを「やしま」といった)と申。又煙を(歌枕として)読習(よみならは)し侍(はべる)もこの謂也」。将(はた)、このしろといふ魚を禁ず。縁記の旨世に伝ふ事も侍し。

 

(3)木花咲耶姫を祭る富士山本宮浅間(せんげん)大社

富士山そのものをご神体とした信仰にはじまる富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)は、全国で千以上に及ぶ浅間神社の総本社で、浅間大神と称される木花咲耶姫を祭神としている。

浅間大社の由緒によれば、第7代孝霊天皇のころ、富士山の噴火により人々が恐れて逃げ出したことから国が荒れ果て、後に、第11代垂仁天皇が木花咲耶姫を富士山の麓に祭って山霊を鎮めたのが起源といわれる。

現在の社殿は、慶長9年(1604年)に徳川家康によって造営されたもので、本殿、拝殿、楼門が当時のまま残っている。境内には、富士山の湧き水の湧玉池(わくたまいけ 特別天然記念物)がある。

 

3謡曲

難波の歌、木華開耶姫に関係した謡曲を4曲見付けました。

難波(なにわ) 難波の梅を主題にして仁徳天皇の世を言祝ぎ、王仁(をおにん)、木華開耶姫を主人公にしている。

 

櫻川(さくらがわ) 櫻を歌うため、地元の神社の神、木華開耶姫を引き出しただけでした。

芦刈(あしかり) 春を謡うのに、古今集仮名序の、難波の歌(31文字全部)、安積山(あさかやま)の言の葉、を引用。

雲林院(うんりんいん) 難波の歌を、言葉の「今は」の序詞(じょことば)とした。

(1)  難波

・難波の梅を主題にして仁徳天皇の世を言祝ぐ。世阿弥が、難波の歌と木華開耶姫を結びつけて能にしたようだ。

世阿弥の時代、室の八島、浅間神社のことからも、木華開耶姫と結びついた話が世の中に広がっていたと思う。また、難波津の歌も、木華開耶姫から、調子の良い「咲くやこの花」にしたのかもしれない。

 

・熊野参籠の臣下が難波の里で、梅の木陰を清めている老若2人の男に出会い、名高い難波の梅や仁徳天皇の仁政について教わる。

2人は梅の精である木華咲耶姫と百済(くだら)国の王仁(をおにん)であると明かし姿を消すが、夜再び現れ舞を舞って天下泰平を祝う。

 

【分類】(*1) 初番目物 (脇能)  【作者】世阿弥   【季節】正月

【役別】前シテ:老翁、後シテ:王仁、ツレ:木華開耶姫  【所】摂津国難波

*1【分類】について 能の作品を登場する役柄と曲趣によって5つに分ける分類法があり、「五番立」という。

能の正式な上演形式で、初番目物 脇能(神能)・2番目物 修羅能・ 3番目物 鬘(かずら)能・4番目物 雑能(物狂い能など)・5番目物 切能(きりのう)(鬼畜能)の順に五番の能および それに見合う狂言を上演する。

神・男・女・狂・鬼とも。現在はほとんど行われていない(5番上演することがほとんどない)。

 

(2)  櫻川

 ・櫻を歌うため、木華開耶姫の名を引き出しただけでした。

 ・筑波山近くの桜で有名な櫻川でのさらわれた子櫻子と狂った母親の再会、そして故郷に帰る話です。地元の神様が木華開耶姫であって、花も櫻になっている。

 

【分類】4番目物 (狂女物)  【作者】世阿弥   【季節】3月

【役別】前シテ:母、後シテ:狂女 子方:櫻子  【所】常陸国櫻川 

 

(3)芦刈

 ・難波の春を謡うのに、古今集仮名序の、難波の歌(31文字全部)、安積山(あさかやま)の言の葉を引用。

・有名な難波の芦を謡ながら、大和物語にある落ちぶれた狂った夫と、尋ねてきた裕福な妻との再会し都へ帰りと言う夫婦和合の筋です。

 

【分類】4番目物 (男物狂い)  【作者】世阿弥   【季節】3月

【役別】シテ:日下左衛門、ツレ:左衛門の妻    【所】摂津国尼崎

 

(4)雲林院

   ・「今は」の言葉を引き出す序詞とした。「難波津の咲くやこの花冬籠もり今は現に都路の遠かりし程は櫻にまぎれある雲の林に着きにけり」とある。

・伊勢物語の愛読者に、業平が何かの秘事(多分、恋の秘事?)を授ける、という話です。秘事伝授は中世期の流行事だった。美しさと優雅さを男(女ではない)で表現させている。

 

【分類】4番目物   【作者】世阿弥    【季節】2月 

【役別】前シテ:母、後シテ:狂女 子方:櫻子   【所】京都洛北紫野雲林院

  

4結論

 ・長い歴史の中で、日本の独特な和歌と権力者が大事にした神話が、きれいな日本語とともに引き継がれ、具合良く結びつき、自然と物語(新しい神話)が形成され、世の中に広がっていたのだ、と考えます。

 ・それを、室町時代、河原乞食と言われた、観阿弥、世阿弥という人物によって、能の形式に作り上げられ、将軍に愛され、以後600年、現在の形式に出来上がったと思います。他の芸術、考え事にも影響を与えたこと、これも幸せなことと思います。

・万葉集の防人歌、東歌、読み人知らず、また、歌垣の風習などの庶民の力は、凄いと思います。貴族等権力者は、出来て当たり前です。

・また、一方、他人の家に土足で踏み込み殺し犯し奪った権力者が、長い間に政治権力を失ったが生き残り、象徴にまでなったこの国は、良い国と思います。

・考え方としても、謡曲にも良く出てくる言葉、「草木国土悉皆成仏」(そうもくこくどしっかいじょうぶつ 草木や国土のような非情なものも,人間と同じように仏性を持ち、すべて成仏するという意)が我が国には染みこんでいます。一神教にない考え方です。

我が国は、唯一絶対の神という一元的な価値に統合するよりも、さまざまな原理や価値観を尊重し合い、共存できるような多元的な調和を目指す多神教的な宗教を根付かせてきた。これも良いことと思います。

 ・原書も読めず、何も知らない者ですが、以上のように考えます。間違いなどありましたら、ご指摘下さい。

 

4参考資料

 ・観世流謡本 難波 櫻川 芦刈 雲林院   檜書店

 ・謡曲大観   明治書院                      以   上


以上   TOPへ戻る   意見・資料纏め へ戻る