『家 忠 日 記』を読んで
家忠日記
『家忠日記』は、松平主殿助家忠(一五五五〜一六00)が、天正五年(一五七七)二二歳から文禄三年(一五九四)三九歳まで書き綴った一八年間にわたる日記である。戦塵のなかに明け暮れたようにみえる若い戦国武将家忠の全く私的な日記が『家忠日記』である。ここにあらわれる家忠は、私たちの抱いている戦国武将のイメ−ジとは、ほど遠い生活を繰り広げているようにみえる。
戦いが終われば深溝へ帰って会下(禅寺)を訪れる。『平家物語』を聞き、能を鑑賞し茶の湯を楽しみ、連歌俳諧の座に連なるなど、その文人肌の人間性を遺憾なく発揮している。また、鷹狩りや漁り(すなどり)を好んで足繁く領村に出かけ、領民の宅に泊まるなど、とらわれない闊達ぶりを見せている。
しかし、「日記」の初めから武田氏の動き、上村出羽守の戦死、「普請」に「手負」「成敗」などの記述が現れる。これは、そのまま戦国武将の典型的生活であったといえよう。戦いを日常にしながら、季節や天候を記録し、「詩心を育てよう」とした。そこに家忠の人がらをみることができる。『宗長手記』の大永七年(一五二七)四月一日の記事に、宗長が深溝の松平大炊助忠定のもとに一日逗留して連歌の興業をしたことがみえる。家忠の風流は、曾祖父から受け継いだものかもしれない。風流・文学の道に大きな関心を持ちながら、戦いの日々を送らざるを得なかった家忠の心を推し量りながら『日記』を読んでみたい。
日記は、家忠自身が見聞した身近な出来事の淡々とした記述である。しかし、時々の大きな事件も家康に従う家忠の日記に現われる。それらの「事件」に対して、家忠は個人的な考えを書いてはいない。あくまで事実の記述である。しかし、事実の選択や書き方に家忠の気持ちを推測することができる。
武田氏と織田氏との狭間で
日記は、武田氏が東から圧力を加えていたころに始まる。天正五年(一五七七)の日記にまず登場するのは武田勝頼の動きである。「鶉つきに出候」と書いていた日々の生活に突然、武田氏の動きが現われる。当時、織田氏と連合していた家康や松平氏の主要な関心事は東方の武田氏であった。また、二年前には武田氏との戦い(長篠の戦い)で父伊忠を失っている。来るべき戦いに備え、家忠は普請に明け暮れていた。
天正五年 十月大
十九日 鶉つきに出候、
廿 日 武田勝頼、小山城より大井川を越候而引候、
廿一日 懸川より濱松迄國衆帰陣候、」信康は岡崎江と越られ候、
廿二日 濱松普請候、家康馬伏塚より濱松御帰陣候、
廿五日 敵大井筋江まわり候由候、
廿六日 普請候、各國衆三河へ被帰候、手前普請出来候、
信康事件
武田勝頼の動きと、それに対する家康と信康の動きを日々記す家忠、主要な関心は武田氏との戦いにあった。武田氏と織田氏、二つの強国に挟まれた松平氏は、当時織田氏との連合も効果があって家康の活発な三河進攻策が功を奏していた。しかし、それまでの今川氏との関係は払拭されていたわけではない。家康の長男信康の事件は、その中で生まれた悲劇であった。それは、五十年来という地震の余震が繰り返す時に起こった。
天正六年(一五七八)十 月
廿八日 信康へ出仕候、酒井左衛門尉所へも越候、申刻ニ大なへゆり候、五十年巳来の大なへ之由候、半時程
又同時少ゆり候、戌刻ニ又地震候、牧野原より、敵山を越候由注進候、
晦 日 夜なへゆる二度、知時す、敵大井川を越候由、牧野より注進候て、各國衆見付迄出陣候、
霜 月 大
二 日 敵小山相良筋移候由にて、家康、信康馬伏塚へ御陣ニ取候、諸人数ハ柴原迄候、
三 日 敵勝頼よこすかの城むかい迄働候、家康同惣人数よこすか城きわニ備候、敵高天神迄引取候、未方も
本陣へ引候、「かけ馬善六へわたし候、」
晦 日 敵勝頼廿五日ニ引候由にて、各浜松迄引候、信康公三河へとをられ候、
天正七年 四 月
廿三日 市にてさう馬かい候、敵武田勝頼駿河江尻迄出候由にて、来廿六日ニ浜松迄被立候へ之由、石川伯耆
所へふれ候、
廿五日 浜松迄日かけニ出陣候、城江未刻ニ出候、敵高天神國安ニ陣取候、由候、
廿六日 家康夜内ニ馬伏塚迄御馬被出候、』信康も從吉田馬伏塚迄被越候、各三川國衆と見付ニ陣取候、
武田勝頼がさかんに軍事行動を起こし、家康と信康はその都度対応を迫られていた。緊張が高まっていた時、
当然のごとくして事件は起こった。日記は家康と信康二人の行動を記し、武田氏との緊張感を伝えている。
天正七年(一五七九)八 月
三 日 浜松より家康岡崎江被越候、
四 日 御親子被仰様候て、信康大浜江御退候、
五 日 夜より雨降、岡崎江越候ヘハ、自家康早々弓てんはうの衆つれ候て、西尾江越候へ被仰候て、にしを
へ越候、家康も西尾へ被移候、会下ニ陣取候、北端城番ニあかり候、
六 日 雨降、北端城番ニあかり候、
十 日 自家康、岡崎江越候への』之由、鵜殿善六郎御使にて岡崎江越候、各國衆信康江内音信申間敷候と、
御城きしやう文候、
八月の日記は、西尾を舞台として展開している。家康の嫡男信康は織田信長の娘徳姫を妻に迎えて、織田家と徳川家の連帯を強固にする役目を負わされていた。
元亀三年(一五七二)に、家康が浜松城に移ったあとの岡崎城を一二歳の少年時代からよく守ってきた信康であったが、織田系の妻と今川系の生母築山殿(関口氏)の間に挟まれ苦悩した。ついに、信長に疑われ、信長の圧力に屈した父家康は、信康を処断しなければならなくなった。浜松から岡崎へ来た家康と信康は八月四日夜、対談の結果、信康は大浜へ退去させられた。家忠が家康の命によって、弓衆鉄砲衆をひきつれ西尾へ来、さらに家康自らも西尾へ来たのは、大浜へ退いた信康の動向に備えるためであった。
八月九日に、信康は大浜から遠江の堀江城に移された。家康は、岡崎へ帰り、家臣団を集合させて、信康へ荷担しないとの起請文をとった。信康は、堀江城から二股城に送られ、九月一五日、ついに自刃させられて、家臣団の動揺も鎮まった。家忠は、この事件で西尾へきて会下に陣取った。日記の文面でみると、家康もそこへ宿ったように考えられる。会下は、康全寺である。会下の本来の意味は禅僧の修業所である(『西尾市史』より)。
以降、信康の記述はない。そして、この後天正八年一一月から天正一二年正月にかけて「普請候」という記述が続く。「雨降」と「普請候」が続き記述量も少なくなる。この信康事件を家忠はどう感じていたのだろうか。「御城きしゃう文候」とあるように家康は、この件で起請文を書かせたという。この少ない記述に、家忠の気持ちが感じられるように思う。それは納得できぬ苦しい出来事であった。
武田氏滅亡
天正九年四月二二日より記述が徐々にふえる。武田氏との間の戦闘が書く意欲を喚起したのだろうか。
天正九年(一五八一)三 月
廿二日 戌刻ニ敵城をきつて出候、伯耆、手前、足助衆所々にて百三十うたれ候、相のこり所々にてうたれ候
頚数六百余候、
天正一O年、家忠は二八歳となっていた。そして年の初めに「三川は大水大風三度出候て、世中悪」と記し、一日には、「ユカケサシムスヒテ敵はホロフレハ ソハコノカタキモ未来ニモナシ」と詠んだ。
天正十年 三 月
一 日 江尻穴山味方ニすミ候、
九 日 中将殿様、六日ニ甲府へ押入被成、勝頼ハ山入候由候、
九 日 法花寺ミのふ迄陣替候、家康まくさ迄御越候、
十 日 市川迄陣ヲ寄候、家康もまくさより市川迄御越候、
十一日 家康、穴山同心にて甲府』中将殿へ御越候、武田勝頼父子、てんもく澤と云所ニ山入候を、瀧川手へ
打取候てしるし越候、
十二日 雨降、
武田氏との戦いは最終段階に入っていた。そして、この年は大きな事件が相次いだ。武田氏の側に崩れがあり投降者が続いた。陣替えや戦いがあり、勝頼父子を追及する記述が続いた後、その「しるし」が届いたと記す。これ以後、東からの脅威は取り除かれて、松平宗家(徳川氏)の発展はいよいよ確実となる。ともかくも、めでたい節目であった。その次の日は「雨降」とだけ記す家忠であった。
この時のことを『信長公記』は次のように記す。
三月十一日滝川左近は、武田四郎父子・夫人など一門の人びとが駒飼の山中に引きこもっているということを聞いて、けわしい要害の山中へ分け入り捜させたところ、田野というところの平屋敷にしばらく柵を設け、陣をすえていることが分かった。すぐさま先陣として滝川儀太夫・篠岡平右衛門に命じて屋敷を取り巻いたところ、武田四郎勝頼はのがれがたいと知って、あわれ花を折るにひとしく、美しい一門の夫人・子共たちを一人一人引き寄せ、四十余人をことごとく刺し殺し、その他の者はちりぢりとなって切って出て討ち死にをした。(略)三月十一日午後十時ごろ、それぞれが主君の後を追って討ち死にしたのである。武田四郎父子の首は、滝川左近(将監)から、三位中将信忠卿のお目にかけられたところ、信忠卿はさらに関可平次・桑原助六の二人にそれを持たせ、信長公へ進上された(『信長公記』太田牛一より)。
このようにして、名門武田氏は滅んだ。
本能寺の変
この天正一0年は大きな事件が突発する。六月一日夜、明智光秀の軍勢は京都に向かった。二日明け方、明智軍は本能寺への攻撃を始め、織田信長他多数の者が命を落とした。時代を鮮烈に切り開いていた信長の突然の死の報は、三日の夜家忠のもとに届いた。そして、松平氏の命運を握る家康の安否が気遣われるという緊迫した状況の中で日記は書き続けられた。翌日ともかくも岡崎にかけつける家忠であった。京都よりの情報は混乱していた。
天正十年(一五八二)六 月 大
三 日 (略)酉刻ニ、京都にて上様ニ明知日向守、小田七兵衛別心にて、御生かい候由、大野より申来候、
御父子明知別心也、
四 日 信長之儀秘定候由、岡崎緒川より申来候、家康者境ニ御座候由候、岡崎江越候、家康いか、伊勢地を御
のき候て、大浜へ御あかり候而、町迄御迎ニ越候、穴山者腹切候、ミちにて七兵衛殿別心ハセツ也、
五 日 城江出仕候、早々帰候て、陣用意候へ由被仰候、伊勢、おハりより家康へ御使越候、一味之儀ニ候、ふ
かうすへかへり候、
四日、信長父子の死は「秘密」にするよう連絡があった。家康は境(堺)にいるというので、岡崎に行き、事情を確かめる家忠であったが、家康は伊勢路を退き、大浜に渡ったという連絡が入る。穴山(梅雪)は切腹したという。七兵衛とは、織田七兵衛信澄のことであり、信長より「大阪で家康公をおもてなしせよ。」と命じられていた。その七兵衛は、三日の時点では明智ともども謀反をしたと連絡が届いていた。その七兵衛は四日の時点では、「ミちにて…別心ハセツ」とある。つまり、謀反はしなかったと。そして、続報が届く。
七 日 かりや水野宗兵へ殿、京都にてうち死候由候、
八 日 小田七兵衛、去五日ニ大阪にて、三七殿御成敗之由候、
九 日 西陣少延候由申来候、水惣兵へ殿事、京都ニかくれ候て、かいり候由候、
十 日 明後日十二日出陣候へ之由、酒左より申来候、
十五日 旗本へ出候、明知ヲ京都にて、三七殿、筑前、五郎左、池田紀伊守うちとり候よし、(略)
討ち死にしたと聞いていた旧知の水野宗兵衛が隠れて命を永らえ帰ってきたという報せがあり、既述した七兵衛こと織田信澄が、五日に三七殿(織田信孝)に成敗されたとの知らせが入る。そして、出陣の用意を一二日にせよという連絡を受けて準備を始めた翌日、さらに一四日まで延期の連絡が入る。一五日には、「明知(明智)を、うちとり候」という連絡が入る。急転直下であった。このように戦いを事とし、松平宗家(徳川家康)と緊密な連携を保つ家忠には驚くほど早く情報が届いている。そして、簡略な記述に戦国武将としての明確な意志と判断を感じるのである。
堤つかせ(治水)
家忠の面目躍如たるところが治水・普請である。現代における土木建築の技術者にも似ている。また、労役に携わる人々を掌握する術も心得ていたのであろう。大水による堤防決壊とそれに対する「堤つかせ」の記述が各所で語られている。特に永良、中嶋(中島)などに関する記述は多い。それは、この地域の位置関係をみれば明らかである。広田川、安藤川が右に流れを変える低い土地にこれらの地域が存在する。
天正六年(一五七八)六 月
九 日 永良へ堤つかせニ越候、
十 日 堤つかせ候、
十一日 同 堤つかせ候、
十二日 中嶋堤つかせ候、
十三日 同 堤つかせ候、
十四日 同 堤つかせ候、
十五日 同 堤つかせ候、
十六日 夕立候、岡崎へ帰候、長井蓮見にて土呂へより候、
家忠は、城廓築上の技術に通じていただけでなく、水利堤築造の堪能者でもあった。所領の中島と永良はともに広田川添いで、水害が頻繁であった。鷹狩りや、魚つかみには格好な場所であったが、水害復旧に苦労せねばならない所でもあった。深溝から出かけて来ては、堤防工事を指揮したのである。一六日の記事の長井は現在の永井、蓮見は羽角であろう。永井、羽角を経て土呂(福岡)に寄ったのであろう(『西尾市史』より)。
当時、家忠の治水の関心がこの地域にあり、例年の「あミひかせ」の地も、またこの中嶋、永良にあった。菱池という池が広がる中、舟を主な交通手段にしてこのコースを辿ることも頻繁であったことが日記から伺える。
「あミひかせ」の好きな家忠
日記の中に、頻繁に出てくるのが、「あミひかせ」である。例年、一一月から一二月に、永良方面に出かけては、「あミひかせ」(魚取り)をしたことがうかがえる。
天正六年(一五七八)十二月
八 日 永良へ鷹野ニ越候、
九 日 さし物したて候て、侍衆へつかハし候、
十 日 長池にて、白なわ引せ候、風吹にて魚なし、ふかうすへ帰候、
寒風の吹きすさぶなかで「白なわ」の世話をしたのは農民たちであろう。農民たちのとめるのも聞かず、強行
して「風吹きにて魚なし」と書かねばならなかった二三歳の青年武将であったとある(『西尾市史』より)。
大変事のあった天正一0年を除き、年中行事のように年末になると「あミひかせ」の記述が見える。ここに、
家忠の「あミ引かせ」の成果のいくつかを挙げてみたい。
天正 五年一一月一0日 永良、長池 白なわ引せ 鯉三三本
天正 六年一二月一0日 永良、長池 白なわ引せ 「風吹にて魚なし」
天正 九年一0月廿七〜廿八日 永良、長池 白縄引 鯉六四本(両日合計)
天正一一年一一月一日に〜二日 永良 あミ引 鯉六0本、鮒五00枚「一番大漁」
天正一二年一二月一七日 長池 あミひかせ 鯉三0本、鮒一00枚
天正一五年一二月七日 永良 あミひかせ 鯉七五本、鮒 五0枚
同 八日 永良 あミ引せ 鯉六五本、鮒 三五枚
天正一六年一二月一五日 中嶋 あミひかせ 鯉二0本
天正一七年一一月廿九日 永良 あミひかせ、鯉 四本、鮒一00枚「大雪」
同 一二月一六日 中嶋 あミひかせ 鯉二0本、鮒二00枚
同 一九日 永良 あミひかせ 鯉二五本、鮒一00枚
例年一一月、一二月は、中嶋や永良で「あミひかせ」を行なうのが家忠の「年中行事」であったようだ。暦の一一月、一二月は今でいう二〜三月。「新春」間近とはいうものの寒風吹き付ける中での「あミひかせ」であったと思う。毎年のように、永良や中嶋に出かけて「あミひかせ」を行なっている姿に生き生きした家忠を見ることができる。これは、『西尾市史』でいうように無理強いをする家忠ではなく、農閑期の農民との実益を伴なった取り組みであったように思う。たびたび「あミひかせ」に中島方面に出かけた家忠であったが、天正七年七月と天正九年七月に、「川かり」に小美(おい)へ行っている。また、天正一三年七月には「保々へあゆとりニ越し候、夕立する」とある。天正一四年の七月には「保々へ川かりニ日かへりニ越候」と書いている。小美(おい)、保々(保母)に出かけて鮎をとったのだ。季節の遊びを楽しんだ家忠であった。
五0年巳来の大水
家忠の日記には雨の記述が多い。なぜ、これほど雨に関する記述が多いのだろうか。まず、考えられるのは、雨による被害が多く、治水に関心を持たざるを得ない地域であったことだ。雨が降り続けばすぐに氾濫する広田川、安藤川があり、古くは矢作川が流れ込んでいた。そして、菱池という大きな池があった。農業の振興のためにも、生産力を維持して国の力を発展させる戦国武将の立場からいっても、雨に関心を払わざるを得ない立場にあった。城の普請は、治水ときってもきれない関係にある。家忠の面目躍如という場面が日記に登場する。
天正十一年(一五八三)七 月
廿 日 大雨降、五十年巳来大水ニ候、御祝言も延候、
廿二日 雨降、ふかうすへかへり候、中嶋永良堤入之口皆々切候、三川(河)中堤所々きれ候、
廿三日 雨降、申酉間ニ地震候、夜大雨降、大水出候、廿日之水よりひろ高く候、
廿四日 雨降、中嶋永良つつミ又三四ケ所切候、田地一円不残そんし候、家ひしけ候、
廿七日 東堂大洞わたしにて被越候、大水崩、永良中嶋無所務ニ付而、浜松へ御訴訟ニ小兵つかハし候、
廿八日 会下へまいり候、中嶋へ水見ニ越候、のは(野場)より舟にてこし候、
七月には二0日に「五十年巳来の大水」が出、家康の娘と小田原の北条氏直との「祝言」も中止になったほどであったが、二三日にはそれにまさる大雨があり、広田川の堤が各所で切れ、田地は水没してしまった。さすがの土木技術家の家忠も「所務無く」と浜松の家康のもとへ注進して、その指揮を仰ぐ始末であった。広田川の水害は、このように絶えず沿岸農民を苦しめた。そこへ、水利土木の技術に通じた家忠が領主であったことは農民にとっては幸いであった。二九歳の青年大名は、陣頭に立ってこの災害に取り組んだと考えられる。
深溝城を出て、野場に来る。菱池は満々と水を湛えて湖水の観を呈していただろう。野場から小舟に乗って羽角山の裾を北へ迂回して中島にやって来たのだろう(『西尾市史』より)。
野場から中島へはもう一つのコースがある。野場から風越峠を越えて中島へ出る道である。今は、デンソー西尾工場ができ、昔の雰囲気は失われたが、細い道がくねくねと続き、自転車で走行中谷に落ち死んだ人もあるような道だったという。その道ではなく、あえて舟に乗り、被害の状況を確かめつつ中島に行く家忠に、実践家として第一線に立っていた気概を見ることができる。そして、これらの体験は家忠に土木の才能を付与したものであった。また、水の好きな家忠であった。
大なへゆる(地震)
天正六年一0月廿八日申刻(夜九時ごろ)大きな地震が発生した。五0年来の大地震であったという。そして、天正一三年七月五日には、百年来の大地震が起こる。地震の記録をこまめに記録する家忠であった。家忠は、地震とそれによる建物の被害状況に大きな関心を持っていたようだ。ここに、私が「理科系の頭脳」と呼ぶ家忠の面目躍如たる側面がある。
天正六年(一五七八)十 月
廿八日 信康へ出仕候、酒井左衛門尉所へも越候、申刻ニ大なへゆり候、五十年巳来の大なへ之由候、半時程
又同時少ゆり候、戌刻ニ又地震候、牧野原より、敵山を越候由注進候、
晦 日 夜なへゆる二度、知時す、(後略)
天正六年 霜 月
一 日 申時地震する、 この時の地震は、武田勝頼の動きがあり、家康、信康が出
二 日 申時なへゆる、 動するというあわただしい時に起こっている。日記によれば、
三 日 酉時なへゆる、 八日ほどで、この時の地震は治まっているようだ。
四 日 よるなへゆる、
天正一三年(一五八六)七 月 夜ヘ入迄少ツツ
五 日 永良へ堤つかせニ候、午時(正午)大なへ(地震)ゆり候、百年巳来之なへ之由申候、
天正一三年 十一月
十一日 初雪降候、
十二日 永良へこし候、
十三日 永良より帰候、石川伯耆守上方へ退候由にて、亥刻ニ(午後十時)注進候、則岡崎へこし候へハ、伯
州(石川)尾州へ女房衆共ニ退候、(略)
十六日 家康岡崎へ御帰候、一昨夜はやくこし候とて、御ほめ候、ふかうすかへり候、
廿九日 雪降、大なへ亥刻ゆる、前後おほへ候ハぬ由申鳴候、こゆりハかすをしらす、
晦 日 なへゆる、丑刻ニ又大なへゆる、
天正一三年一一月、大事件が起こる。なえ(地震)がしきりに襲うなか、岡崎城代石川数正の豊臣方への出奔という寝耳に水の急報があったのは、家忠が永良から帰城した夜中の一0時ごろであった。家忠は、ただちに岡崎へ馳せ付けた。このことで家康から褒められ、日記にそのことを記す家忠であった。誇らしげな様子が感じられる記述である。しかし、地震はその前後に続いて起こり、「百年来の地震だ。」と人々は心配しあった。不吉な事件を象徴するように「こゆりはかずをしらず」と記す家忠にも不安の様子が伺える。
天正一三年七月、一一月の大地震では、深溝や中島や永良には大した被害はなかったらしく『家忠日記』に被害の記事はない。地震そのものは、『当代記』にも「此の時諸国山崩れ地裂け 中にも北国斯くの如し 人馬多く倒れ死す 尾州長島 百八里多く以て川となる城中家倒れ焼失せしむ 関東は此の地地震これ無し」と記録されたほどで、極月(一二月)にはいっても一日から二三日まで余震が続いた。家忠は、三ヵ月余にわたって余震の記録を残している。
この時の地震は、天正地震として記録されている。天正一三年一一月二九日(一五八六年一月一八日)亥刻(午後一0時)に畿内の山城・大和・摂津・東山道の近江・美濃・飛騨、東海道の尾張・伊勢・三河等の諸国にわたって大地震が発生した。伊勢湾北部を震源とするこの地震は、M八以上と考えられており、津波も発生したという。そして、各地で死者九千人、家屋の倒壊は一四000軒を越えたという(『東海地方地震・津波災害誌』飯田汲事より)。日記の記述も地震と普請ばかりであり、対策に追われていた家忠の姿をみることができる。
天正一三年 極月大
一 日 城へ出候、なへゆり候、
二 日 なへゆる、岡普請出候て、ふかうすかへり候、たうめ之城御取たて候ハん由候、(略)
三 日 なへゆる、喜平所ニ ふる舞候、
四 日 なへゆる、とうへくわたて候、天清兵衛被越候、
五 日 雨降、なへゆる、
六 日 なへゆる、 (略)
七 日 なへゆる、普請候、奉行鵜殿善六、安藤金助、吹雪市右衛門、
八 日 同なへゆる、
九 日 なへゆる、夜雨降、戸三郎右衛門殿見舞ニ 被越候、(以下、略)
など、翌年三月まで毎日のように地震の記録をみることができる。あわせて「普請」の記述もみえる。地震によって、建物に亀裂が入ったり、傾いたりしたことも考えられる。城普請に大きな責任をおっていた家忠は、各所を見て回っていたことだろう。「岡普請出候」とは、地震で破損した岡崎城の修理が終わったのだろう。
これより四年後の天正一七年二月五日には、申刻に大地震があり、するか川東興国寺と長久保沼津城の塀や門が壊れたという記録を家忠は記している。深溝は、五0年ほど前にも三河地震で大きな被害を受けた。断層も深溝の地を走っており、昔から地震の被害を被ってきた所だと考える。四00年も前に同じような地震が起き、それを長期にわたって記録した戦国武将がいたことに感動させられる。
※ 1998.8.1(土)までに記述したものに、少しずつ追加したものを掲載する。
これは、『郷土史 深溝』に載せたものだが、「家忠日記」に興味を持っていただきたく、これからも少しずつ追加していきたいと思う。