人間らしい心をそだてるために!    1986・8・31

                         丹羽徳子先生の講演から

 これは、恵那の丹羽先生の講演です。私は、その講演をお聞きし、大変感銘を受けました。もともと、文中に引用されている作文を知っており、丹羽先生のこの作文に関する考えを読んで、共感していたのです。ですから、この講演を期待してお聞きしたのですが、期待通りのお話でした。

 私の作文に対する考え方は、この時さらに確実なものになったと思います。

 

 人間らしい心を育てるために綴る   

  「二学期綴り方のめあて」

「文を書くということは、自分の考えを他の人に伝えたり、自分の考えを確かめたり、まとめたりすることができて、たいへん便利で都合がよく、人間が持っている文化のなかでもすばらしいものの一つです。見たこと思ったことなどの、ありのままをすなおに書くことによって、自分を見つめたり、考えを深めたりするようになり、しかも、やさしい心づかいが育ち、ものごとを正しく見ることができる知恵がやしなわれると思います。わたしたちは、一人で生きているのではありません。わたしたちの心の中にある悩みや苦しみを書いたり、喜びを伝えたりして、みんなでわかりあうと、今まで自分が一人で苦しんでいたことが、「そうか、あの子もなやんでいたのか。」などと、気づくようになります。そうすると、今まで見えなかった新しい世界が見えてくるものです。生活をしっかり見つめて書くということは、実は見えない新しい世界をひとつずつ手に入れることができるからなのです。綴るという言葉は一回きりでできあがるという意味でなく、どこまでも続け続けていく、そして、まとめあげていくという意味をもっています。           

 文を書くということは、人間だけが持っている特技です。どんなにかしこい犬でも、猫でも牛でもコアラでも、気持ちは書けません。そのことに誇りをもち、大事に綴っていきましょう。上手な文章を書くのではなく、自分の気持ちにピッタリした言葉を選んで綴っていきましょう。」

 こんなふうに呼びかけては、子どもたちにわかる言葉でよびかけていくわけなんですけれど、そういうことを通したなかで、わたしは、やっぱり子どもたちに、きっとみんなの中に、「題みつけ」ということも、指導の中でしていくわけなんですけれども、毎日「題みつけ」ノートを自分の身近に置いておいて、そして、自分が「あ、こんなことを自分の気持ちで書いてみたいなあ。」ということや、「これは、もんだいだなあ。」ということを題にして、そして、メモをしておくように、そして、そういう中でやっぱり自分が一つのそのことについて、価値あるものをまとめてみようとした時には、長く書くように、ということをして、「題みつけノート」を持たしているわけなんです。

そういう中では、「題が中身を決定する」というようなことで、やっぱり題というのはたいへん大事なんだ、ということも、言っているわけなんです。そういう中で、ほんとに今スラスラと、子どもたちは、いろんなことで面倒くさいということがあるわけなんですけれども、スラスラ書くというわけではありませんけれど、そんなにこだわらずにかける題と、それから本当は書きたいけれど、今は何となくなく書きたくない。書かねばならないけれど、どうしても書けない、という、その気持ちの上で書けない題というものがきっとみんなの中にあるだろう。だから、その題だけを、どんなものがみんなの心の中にひっかかっているか、そういうものを題だけ、一度書いてみてほしいということをだしてみたわけなんです。  

 そうしたら、書ける綴り方の題として、こんなのがでてきました。「お父さんに手伝ってもらったタコづくり」「おねえちゃんが赤ちゃんを産んだ。ぼくは若いおじさんになったんだ」「朝マラソンに挑戦」「楽しかった雪すべり」「大晦日のお宮まいり」「はじめて、除夜の鐘がなるまでおきておれた大晦日」「楽しかった豆学校の新年会」「おせち料理づくり」「牛のヘルパー問題をお父さんと話した」「コアラを見にいって、人ばかりをみた」「ゆうれいをみたといって帰ってきた深夜勤務のお母さん」「左里町のかど松集め」「お母さんたちの兄弟会」「全部使っちゃったお年玉」「牛年生まれのお母さんと私」「私の家のお正月」こういうのがでてきました。これはこれとして価値もあるし、決して軽いとかという問題ではないんですけれども、やっぱり子どもは、こういう題でなら、さしさわりなく書けるといった。

 ところが、本当に心にひっかかっていて、何かこう書きにくい、書けない題というのは、こんなのがでてきました。「おばあちゃんに冷たくするお母さんはいやだなあ」「借家でないぼくの家がほしい」「にくしみあっているとしか思えないお父さんとおじいちゃん」「少しだけのお母さんの家出」「かくれてお酒を飲むおじいちゃん」「中学生になってあれだしたお兄ちゃん」「おじいちゃんの弟が帰ってきてくらくなったわたしの家」「自然食品のご飯はみんなとちがうので気になるわたし」「パソコンを買ってやるで、といって勉強させたがるお母さん」「たっちゃんとのけんかが苦になってねむれなかった晩」「つい口のはずみでテレビ・ゲームがあるといってしまったウソ」「24センチの足がはずかしい」「借金のことでけんかするお父さんとお母さん」「お母さんのウソはゆるせない」「いいかげんな弟は大きらい」「山の木を切るとか売るでけんかするおばあちゃんとお父さん」こういうのがでてきました。

 わたしは、ほんとにこれだけを見た時に、子どもが表面的には、あっけらかんとしているようだけど、実はほんとうに複雑な家庭の問題をいっぱいかかえているんだなあ、ということを思ったし、それからもう一つは、やはりおじいちゃんおばあちゃんとの同居の問題の中で、この子たちが一年生ぐらいの時には、それでもそれなりにでてきた問題が、家庭の問題が、嫁姑の問題が圧倒的な問題になっていたような気がするわけなんですけれども、もう今やその嫁姑などというものじゃなくて、実の親子、おじいちゃんとお父さん、おばあちゃんとお父さんというような、本当に実の親子がにくしみあっているとしか思えない状況が、本当に家庭の中にいっぱいおきているなあ、ということを思ったわけです。

そういう中で、子どもたちは、そんな問題に目をつぶろうとしてもなかなかそこで目をつぶれない。もだえながら生きている。そういう状況をかんじました。そんな中で、一人の男の子が、T君という男の子が、自分のおじいちゃんのことを書いた綴り方をよんでください。

 

作品「おじいさんを見ているとむごいと思うけど、いやになっちゃう自分がたるい」(代読)

 ぼくのおじいさんは、今七十六歳だ。去年の今ごろは、車を運転して、好きなコーヒーを飲みに行ったり、ゲートボールをやりに行ったりしていた。

 それが、今年の二月のはじめごろ、一回はらをこわしてから、元気がなくなった。

「もう えらいで、車も運転したくないわい。」

といったので、おかあさんが、おじいさんに、

「ほんとうにいいの。」

と、ねんをおして、免許証も返したし、車も廃車にしてもう運転しないようにした。そうしたら、そのころからなにかはんだなあと思うことがありました。

 雪が降って、道がこおっていた時だけど、新聞を持ちに行って、ころんでひざをすりむいてきた。新聞は、集会所の下の家にまとめておいてあるので、毎朝おじいさんが持ちに行くことになっている。その時は、おかあさんも、

「道がこおっとったで、あぶなかったに。これからは、亨んたあで持ってこなあかん。」

といったら、おじいさんが、おこることでもないのに、おかあさんに向かってすごいにらむ目つきをして、

「こんちくしょう。おれが持ちにいくでええわ。」

と、どなった。おかあさんは、びっくりしたように目をむいて、だまってしまった。

 ところが、それから毎日ぐらい道がこおっていなくてもころんで、ひざをすりむいたりしてくるので、みんなおかしいなあと思いはじめた。おかあさんが、朝、ぼくに、

「亨、おじいさんが新聞持ちに行くとき、ころぶとあぶないで、ついていってみてあげてくれ。」

といったので、おいついて見に行った。

 そうしたら、ぼくの行くことがわかったのか、おじいさんは、坂のところできゅうに走り出して行ったので(なんで走るのやらあ)と思って、とんでいったら、坂の下のところでころんで、おきようった。ぼくは、びっくりして、そばへいっておこしてやりながら、

「おぞおさん、こんなところ走りゃあ、ころぶわけさ。いつも、走っとったのかあ。」

といったら、おじいさんは、坂の上の方を見ながら、ちょっとおびえたような声で、

「だれかがぼってくるで、にげんなんわ。」

といった。ぼくが、ちょっとわらって、

「ぼくやに、亨やに。ぼってなんかこんに。」

といったら、

「おんしじゃないわい。馬籠のたけさたちが、ぼってきよるわい。」

と、おこったようにいった。ぼくは、なんかおそがくなって、もう何もいわず、おじいさんの服についた土をはらってやって、家へ行った。

 おかあさんにそのことを話してやったら、おばあちゃんにボソボソと小さい声でいようった。そして、おかあさんと、おばあちゃんは、なんか目で合図しているみたいだった。

 それからも、ちょいちょいおかしなことをいうことがあった。

ぼくが、日曜日に、かどでおとうさんの車を洗っていたら、そばへきて、いじのわるいようないいかたで、

「学校行かずに、そんなことしとるで、勉強ができんわ。」

といった。ぼくは、むかっとしてしまって、こっちもいじのわるい言い方で、

「今日なんか休みやに。いかんなんのばかばかしい!」

といってしまった。そうしたら、またにくたらしい言い方で、

「こんちくしょう。おれをばかにしやがって。」

と、どなって、むこうへ行ってしまった。ぼくは、あたまにきて、ホースの水をおじいさんの方へ向けたけど、かからなんだ。

 それから、春ごろだった。ぼくは、知らなかったかれど、おばあちゃんが、たるそうに話してくれたけど、夜中にきゅうにおじいさんが、とびおきて、

「水当番やで、はようおきれ。」

とどなったそうだ。水当番というのは、大雨が降った時に、冷川の水が田んぼに流れこまんように川をせぐのだ。それが、当番でまわってくる。おばあちゃんは、その時、雨も降っとらんし、おじいさんは夢でもみて、ねたぼけたかしらんと思ったけど、おじいさんは、たんすをあけて、何か出して用意しかけたので、びっくりしてとめたと言っていた。

 それから、

「がっぺいのことでもめとるで、はよう行ってこんなんで、せびろを出してくれ。」

といったそうだ。おじいさんは、神坂がまだ長野県のときに、村会議長をやっていたので、がっぺいで神坂を岐阜県にした人だ。そのことを思い出しているのかなあと思った。

 夏休みがおわったころ、まんだ暑くてうすいふとんをかけてねていたころだった。夜中に、何かさわぐような声がしたので、目がさめた。あがり間のへんで、おとうさんが、おこったような声でどなっていた。ぼくは、おそがくなって、じっとだまって、きいていた。おじいさんが、外へ出て行こうとしたのかしらんが、おとうさんが、すっごく大きい声で、

「なんで、外へなんか出ていくよっ。」

といっていた。そうしたら、おじいさんが、ふつうの声で、

「ただ、さんぽにいくだけやわ。」

といっていた。そうしたら、またおとうさんの声がして、

「そんなに人をこまらせて、うれしいかよっ。」

といっていた。ねていると思ったら、お兄ちゃんが、

「亨、おきとるかよ。」

と、ちいさい声で言ったので、

「うん。」

といったら、お兄ちゃんが、

「いま、何時ごろ。」

と聞いたので、机の上にある時計をみたら、二時十五分だった。

「二時十五分。」

といったら、お兄ちゃんが、

「おじいさん、何しよるんや。」

と聞いたので、ぼくが、

「外へ出ていきようるみたい。」

といったら、お兄ちゃんが、

「なんで、こんな暗い時、どこへ行くつもりや。」

といったので、ぼくは、

「しらん。わからんけど。」

といったら、お兄ちゃんが、

「もう、きいておりたない。」

といって、ふとんをかぶって、だまってしまった。ぼくは、おそがくなって、よけいにねむれんようになってしまった。お兄ちゃんとぼくと話しているうちも、おとうさんは、何かいっておったようだったが、そのつづきみたいで、

「そんなの親じゃないわ。兄弟あつめてきいてもらうわ。」

といって、電話をとるような音がした。そうしたら、おばあちゃんの声で、

「たのむで、やめてくれ。」

と泣くような声がして、電話をおさえたかしらんけど、ガチャガチャしようった。そうしたら、おとうさんが、またおこったような声で、

「そんなもん。夜中にかけな、だあれも信用せんわ。」

といっていた。なにか、おばあちゃんとおとうさんが、いっているうちに、また、おじいさんが出ていこうとしたのかしらんけど、おとうさんは、前よりもっとでっかいおこった声で、

「なんで、外へ出ていくっ!」

と、どなった。それから、おかあさんの声もきこえて、おばあちゃんと二人でおじいさんをねんこの方へつれて行ったようだった。おじいさんは、

「こんちくしょう、こんちくしょう。」

と、くせになってしまった言葉をいいながら、ねんこの方へ行ったみたいだった。

 ぼくは、ずっとおじいさんが好きだったのに、このごろはもういやでいやで、きらいになってしまった。ごはんを食べているときでも、はしをもったまんま、じっとぼくの顔をみとって、ちょっとも食べんときがある。そのときは、まずくなっちゃうので、あわてて食べて、部屋へいっちゃったりする。だけど、ものすごくごがわいてくると、

「なにい、もんくあるのか。」

と、つっかかっていってしまう。そういう時は、ちゃんとあとから、おばあちゃんとおかあさんからしかられる。おばあちゃんは、

「おじいさんは、亨や俊介はかわよてしかたがなかったので、あんなひどいこといわんでくれよ。」

と、泣き声でいう。そのことをきくと、ほんとにそうだなあと思うけど、どうしてもおじいさんがへんな目やへんなことをすると、へんなことを言いたくなってしまう。おかあさんは、

「おじいさんは、あんな病気になってしまってむごいで、亨、かっとなるなよ。pじいさんのくすりは、みんなでやさしょうしてあげることやでなあ。」

と、いつも言っている。ぼくは、おとうさんよりおばあちゃんやおかあさんの方がめんどうみるにえらいのに、やさしいなあと思うけど、しかられると、なんかしらんけど、いらいらしてくる。

 おじいさんのお兄さんになる落合の半坂てつじというおじいさんは、もう八十くらいだけれど、ぼんさいを作ったり、あゆかけをしたりして、まんだすごい元気だ。それにくらべると、おじいさんは弟なのにへんになっている。

ぼくも年をとったら、お兄ちゃんより先におかしくなるかもしれんで、心配でたるくなってくる。おばあちゃんは、そのことでぼくに、

「おじいさんは、役場のえらい仕事ばっかやったで、頭ばっかつかって、手をつかわんで、しゅみがないで、あかんなあ。」

といっていた。

おじいさんのことで、好きなことだったのは、いろいろ買ってくれたし、

「神坂を中津にがっぺいしたときは、えらかった。よう東京まで行った。おじいさんは、人の役に立ったで、おまえたちも役に立てよ。」

と、口ぐせのようにいっていた。それが、今では、

「こんちくしょう、こんちくしょう。」

が、口ぐせになっちゃった。

 それから、五年のとき、ぼくも名前のつけかたをしらべたとき、おじいさんが、

「おとうさんたちは、なにか予定しとったが、亨という名は、おじいさんが、古屋亨さんの名をもらってつけてやった。ああいうえらい人になるようにだぞ。」

といたことがある。ぼくが、古屋亨という人はどういう人ときいたら、

「このへんで議会に出ておるうちで、一番えらい人。」

といった。ぼくは、その人をみたことはないけれど、「亨」の字は、子になって、「享」の方がいいような気がする。

 おじいさんは、ずっと前はくすりなんかあんまりのまなかったし、ぼくたちも、

「かぜひいたくらいでくすりのむと、体があかんようになっちゃう。」

といっていたのに、このごろは、おばあちゃんにならべてもらっては、うれしそうにのんでいる。

 この間も、風呂に入って一時間ぐらいしても出てこないので、おばあちゃんがみにいったら、まんだ入っていたので、

「いいかげんに出らんかい。」

といったら、

「いま、入ったばっかやに、そうせかすな。」

といって、おこったそうだ。

 おじいさんは、年をとって、ぼけてきたで、しかたがないと思おうとしても、なんでかしらんけど、みると、むかむかしてくるし、いやになってしまう。

 おばあちゃんや、おかあさんにしかられると、

「おかあさんたちだって、いやなんやらあ。こっすいなあ、うそこいて。」

といってしまう。

 このあいだ、買い物のかえりに、車の中でおかあさんが、

「うそこいとるわけじゃないけど、こらえてやさしょうしていかな。家じゅうたるうなるでなあ。」

と、ちょっと涙ごえでいった。そういうときは、ほんとうにそうだと思うけど、むごいという気持ちもあるけれど、いやな気持ちの方が、今はたくさんある。お兄ちゃんは、わざといそがしそうにして、おじいさんのことは考えんようにしているみたいな気がする。ぼくも、ほんとうは考えたくないけど、思っちゃうでたるい。

             『恵那の子』(1986年)より

 

 

 

 

 

                     1986・9・2テープより