1994.3.12(日)

 作文談義       

 

O 作文「指導」について、こんな話題が話し合われました。みなさんは、どう思われますか。

 

A 「作文指導」という名のもとに、さまざまな弊害がおきているというよ。

B ぼくも、聞いたよ。教師が、子どもの作品に手を加えるとか。

C 教師としては、自分の「指導力が問われる」というので、つい「力がはいる」と

  いうことなんだろうけど。

E あれ、子どもの作文に手を加えてはいけないんですか。

A 作文指導として、子どもが書いた作文を話し合い、子どもがより深く、より追求力をもって書くように指導することはあるよ。しかし、「ここは、こう直しなさい」「ここは、書かない方がいい」というような子どもが納得しないような形での「技術指導」や一方的な書き直しが横行しているのが事実だろうね。

D 子どもにとって「自分の作品であるような、ないような気持ち」にしてしまうことは、教育的と言えるのだろうか。

C ある親が、「自分の子どもの作品が、ある文集にのることになって、先生に、何回

  も書きなおしをさせられた。」と、言っていた。

A それで、子ども自身が、「自分の作品ではなくなった」と言っているとか。

C もっと深刻なこともあって、「その作品を書いている時、神経質になって、親に見られるのをたいへん嫌って、見せてくれなかった。」というんだ。

B 高学年になると、そうなるケースが多いのでは。

C それもあると思う。しかし、精神的に成長している子や、自分をとらえられる時期ともなると、自分が「気持ちを装っている」ということや、「これは、自分の本当の気持ちだろうか」ということが、だんだんわかってくる。

D 書いている本人が、一番悩むことになるかも知れないね。

E 私も小学校の時、作文が書ける方で、何かの応募に選ばれて一生懸命書きました。いろいろいわれているうちに訳がわからなくなって、最後は何を書いたか覚えていないんです。

B 作品に手直しするというのは、よくあることで、書いているうちに「自分の文章」のような気持ちになることもある。その時、「教師の意図を受け止めて書いている」んだが、それが、「ふだんの自分の心情と違うことを書いている」ということもあるのでは。

A 教師の指導で「はじめあった素朴な気持ち」が、「脚色されて、強調される」とか(これは、誇張されるといった方が良いか)、日常のことが、あまりに集約され、強められるということがある。

C その親は、「作文の言葉は、そう変わっているようには思えないが、これが自分の子どもかと言われると、違うようにも思える。」と言っていたが。

D それは、「公に出すような作文だったのか、日記だったのか」ということも、問題になるね。

C だいたい、応募作品について「指導」が入り、いろいろ書き換えられてしまうことになる。

B そうなんだ。子どもにとって、「自分の気持ちに素直に書こう」とすると、友達関係など、あまり公にしたくないこともある。

A それを、脚色されて、公にすれば、かえって気まずくなることもあるのでは。

D 教師一人満足するということにもなりかねないね。

B 作品至上主義の中で、そんなことも起こり得るよ。作品が一人歩きをするんだ。

A 作文コンクールのような風潮には、批判も根強いね。作品が載る「常連」教師がいるようだが、特に「国語の教師なら、一度は入選作品を出してみたい。」などという雰囲気もあるようだ。

B 各地の「○○の子」という作文集は、その地域の国語教師や出世のために何かポイントがほしいという教師による無理な「指導」があるのではないか。

A 三河地域の作文集である「○○の子」は、そんな無理な指導の集大成というか、「美文指導」の典型のような作品が毎年載るね。

E そうですか。私なんか、あの作文集を参考にして、子どもらに「こんな風に書くんだよ。」と言ってしまいましたが。

C あの作文集については、また具体的に作品検討をしよう。

B 学級の20〜30人の中で、一人や二人の「書ける子」を競わせ、何がなんでも

  入選させようとすれば、無理がくる。

D 「作文(入選)指導のイロハ」をおしつけるということになるわけだ。私は、「美文指導のイロハ」として、こんなふうにパターン化してみました。

  ※ @会話(つまり「 」で)始まる。   

    Aはじめ・なか・おわりと文が起承転結がよく整っていること。

    B決意表明で終わっていること。(これは、最近では、より効果をねらい、感情をにおわすようになってきている。)

    C道徳的に、書いている本人が「作品を書くこと通して成長している」こと。

    D題材が、子どもの生活から出発していること。しかし、生活を書くだけではなく、劇的な要素も必要なこと。非日常的なことはインパクトがあって、よく「題材」となる。たとえば、肉親が亡くなったことなど。

    Eそれが無いときは、「劇的なもの」に変える。

B 文集などは、本来自由応募が当然だが、全員参加が強制され、その中から「優秀作品」が決まるのだから、ついつい「教師間での競争」が起きることになる。

C 「作文教育」というが、それでは、反って、子どもの心を傷つけることになってはいないかな。

A それに気づかず、得意になっているような教師もいるようだ。

E 確かに、そうなんだが。教師としては、鼻高々ということも。

C ある校長が「うちの学校から『みかわの子』に出ている作品が少ない。何とかならんか。」と言ったというような話が伝わってきた。

B 『みかわの子』は、一作品あたりの字数が決まっているが、その「字数が、低学

  年なんかでは多すぎる。」という意見もある。

D 一年生から、原稿用紙に何枚も書かせることに無理があるね。

A 日本作文の会の太田昭臣氏が、子どもの頃作文のよく書けたという大学生にアンケートをしたら、次のように書いた大学生がいたという。

 

 

 「私は以前、自分の書いたものに罪悪感を抱いたことがある。それは、県の作文

 コンクールで特選をいただいた小学六年生の時である。『わたしのおばあちゃん

 』という題で、亡くなった祖母の生前のことを書いたもので、この作文の中にう

 その部分があったのである。最初、自分で書いた時には、『死』ということを強

 く表現していたが、だんだん推敲を重ねるうちに違ったものになっていた。先生

 が、大半を書き直してくださって、その作文は、最初に私が書いたものとは比べ

 ものにならないほどにすばらしい作文になっていた。

  しかし、私は賞をいただいても、それほどうれしくはなかった。もし、私が書

 いた作文そのもので賞をいただいたのならうれしかっただろうが、その大半を先

 生によって書き直された作文で賞をいただいた時は、素直に喜ぶことができず複

 雑な心境だった。このように、うそを書いたり、文章を美化して書いたりしたこ

 とのある人は、私以外にも多くいた。」(大学3年生)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

C 教育というのは、目立つとか賞がもらえるとか、そういうものから本当に自由で

  ありたいね。