歴史の話      

 ○三河武士団(みかわぶしだん) 松平家と家臣の話

 

1,松平長親と家臣の話

 松平長親  伊勢新九郎が岩津におしよせ、はげしい攻撃をくわえている。弓矢を取る者として敵が少なく、味方が多いときでも、あえて戦をしかけないときもある。その逆に、敵は大軍、味方は少なくても、やむなく戦わなければならないときもある。いまや、われらは敵が大軍なのに、どうしても戦わなくてはならない状況になっている。自分は、この生命を今日限りと見切った。そなたらはどのように思っておるか。

 家臣    殿の言われるとおり、敵がどれほど少なくても、しないでよい戦いであれば、われらは進軍をひかえましょう。しかし、敵がいかに多くても、しなければならない戦いであるなら、ぜひ戦うべきだと思います。まして、今度の戦いは、どうしても行わなくてはならない戦さ。まよって時刻をむだにする時ではありません。日ごろのお情けといい、また、特に譜代(ふだい)の御主君(ごしゅくん)の一大事であることを思えば、われらは妻子(さいし)をもかえりみず、殿の御馬前(おんばぜん)に切り死にし、三途の川まで死でのお供をすることこそ、弓矢取る身の面目(めんもく)と心得ています。

 

2,松平清康と家臣の話

(清康が食事をしていると、家臣がやってきたので)

松平清康 皆の者、これを使って酒を飲むがよい。

  家臣   (頭をたたみにつけ、動かない)ははっ。

松平清康 (家臣がためらって、頭をたたみにつけていると)主君となるも、家臣となるも、それは前世(ぜんせ)の因果(いんが)によること。もともと侍に上下はなきものよ。いたずらに気づかいせず、早く飲むがよい。

  松平清康 老若ともに三杯ずつ飲め。

       (家臣一同、清康の思いやりにかんげきし、帰るとちゅうに)

家臣    殿様の食器を杯(さかずき)になされてのことといい、お情けあるお言葉といい、これほどのご恩(おん)はどんなに知行(ちぎょう)を加えられ、山ほどの宝物をくだされたとしても、それにまさるものではない。ただいまいただいたお酒は、わたしたちみんなの首の血と同じものだ。ともに飲みほしたからは、御主君(ごしゅくん)の恩(おん)に感じ、御馬前に討ち死にすることこそ、この世に生きる真の生きがいというものだ。あの世への思い出としよう。

 

3,松平広忠と家臣

 広忠が家臣と鷹狩(たかがり)に出かけた時のこと。ちょうど5月の田植え時であったので、家臣の中には泥まみれのかっこうで田植えを行っていた者がいた。広忠は、ふと一人の男に目をとめた。

松平広忠  あれは、近藤ではないか。ここへ連れてまいれ。

    (家臣たちは、近藤がこの場で切り殺されてしまうと心配した。)

    (家臣たちは貧しく、野良仕事をしなければ、妻子をやしなうことができなかったのだ。)

松平広忠  近藤か、みちがえるところであった。それにしても、お前たちは、そのようにして身を粉にしたつらい仕事をしながら妻子をやしない、合戦(かっせん)があるときは、一騎がけにかけて、命をすててくらべるもののないようなすばらしい働きをしてくれるのだな。にもかかわらず、自分は小身(力が弱い大名(だいみょう)なので、十分な土地もあたえてやれず、そなたに野良仕事の苦労をさせているしまつだ。おそらく、他の家臣も同じようなものだろう。自分もあわれに思い、もっとましな土地をあたえたいと思うが、お前たちも知っているようによぶんな知行地(ちぎょうち)を持っていない。それなのに、お前たちが多くの土地をほしがらないで、野良働きをしながら、私につかえてくれるのは、とてもうれしいことだ。ただ、宝とすべきは昔からの家臣の者だ。そのように野良働きをするのは決してお前の恥じではない。主君である自分の恥じなので、お前も他の家臣も決して恥ずかしいと思わず、妻子をやしない、命をすてて私に奉公(ほうこう)してくれよ。お前たちが合戦ではたらき、領土がふえるものならば、自分もたくさんの土地を与えたいと思う。ただ、今はそうできないので、野良働きをしても妻子をやしない、命をおしまず戦場に出てほしいのだ。

 

4、三河が今川に支配されていたころ(家康が人質になっていたころ)

駿河(するが)衆に出会うと、松平の家臣ははいつくばってひれふし、肩をすくめて歩いた。もし、駿河衆とけんかでもおこそうものなら、人質の家康の身にわざわいがおよぶのではないかと心配してのことだ。このようにして、譜代(ふだい)の家来が細かい心遣いをして、奉公すること10年余となった。

その間、今川氏は年に五度、三度と尾張を攻めた。そのたびごとに、一番危険な先陣(せんじん)をつとめさせられたのが三河の譜代の家来だった。主君である家康は人質となっている。だが、主君がいなくても、ためらって主君にいわくがかかってはならない。そこで、松平の譜代衆は進んで先陣の命令にしたがったが、親を討ち死にさせ、子を討ち死にさせ、おじ・おい・いとこを討ち死にさせねばならなかった。そして、本人も多くのきずをおったのである。ぎせいは少なくなかった。

 

5、大久保忠世と家来

 ある戦いのあと、忠世は部下がけがをしていることに気がついた。大将であった忠世は部下に馬をあたえ、乗せようとした。

 しかし、部下も「大将ともあろうものが、身分の低い私のような者に馬をわたすようなことはするべきではない。」と、受け取ろうとしない。

 

大久保忠世  えんりょは、時と場合によるものだ。早く乗るがよい。

杉浦久勝   自分があなたを馬からおろし、見殺しにして、たとえこの馬に乗って生き長らえたとしてもなっとくがいかない。どうあっても乗りません。

大久保忠世  乗るなら乗れ、いやなら馬をすてるがいい。

      

  と言って、大久保忠世は、行ってしまった。

  そのうちに、大久保忠世の家来がやってきて、

 

児玉     大久保様は、すでに行かれてしまったぞ、早く馬に乗れ。

 

 児玉は、杉浦をだきかかえるようにして馬に乗せた。

 

6、大久保忠教の言葉

譜題衆(ふだいしゅう)は、家康公の代まで、山や野にふせ、夜といわず昼といわず戦場で働いてきた。時には、忍びの物見(ものみ)までして、武勇(ぶゆう)を第一に心がけてやり先をとぎ、みがき、やじりをみがき、鉄砲の手入れをしつつ、武士としての思いを燃やして一筋に働いてきた人々の子孫なのだ。

彼らは、生まれるとすぐ祖父や親のがんこでいちずな生きざまを見なれてきたので、上方衆のように、かわいらしい話し方はできないし、小さな人形のように着かざったり、おせじを言ったりすることもできない。

しかし、上様のお役に立つことにおいてはこの日本に譜代衆にまさる者はいないだろう。ただ、国もおさまり、天下をあらそうこともないので、譜代衆は「もう、用はない。」と思われて、お言葉もかけてくれないようになったのであろうか。

 

7,大久保忠教の子どもたちへの言葉

子どもよ、私の言うことを聞け。徳川家は初代親氏が松平郷に落ち着いて以来、八代をへて、家康公の時代になった。われわれ譜代衆は、その間野にふし、山を家とすることもいとわず、戦場で働いたり、忍びの物見をつとめてきた。たびかさなる合戦のうちに親を討ち死にさせ、子をうしない、おじ・おい・いとこ・はとこを犠牲にするなどして奉公を申し上げてきた。それのみならず、女子どもや一族に麦のかゆ、粟(あわ)や稗(ひえ)のかゆを食わせ、自身も同じものを食べて、出陣すれば討ち死にするという奉公をしてきた。それなのに、それらの子孫の子どもたちは、いまや御前に出る力もなくなった。彼らの中には、あてにならない人の家来となってかぎられた期間だけ奉公をして、不安定な生活で世を送る者もあり、走り奉公ような軽々しいつとめをする者もあり、いわし・ごまめなどを背負って売り歩きながら世を過ごす人もいる。あるいは、御前に奉公する者もいるが、彼らとて百表・百五十表・二百表・三百表とご扶持(ふち)をいただいて、奉公するからには、ちゃんと髪をゆい、若党の一人や二人は連れて歩かなければならない。城下を立ちまわるにしても、徒歩(かち)・裸足(はだし)というわけにはいかず、小者を数人はかかえなくてはならない。だが、百・二百・三百表くらいの扶持では、ふだん着るかみしも一枚をととのえるにも、若党(わかとう)や小者(こもの)に給金(きゅうきん)を与えるにも不十分である。だから、譜代衆の子孫の暮らしをみると、昔の親・祖父の代に変わらず、いぜんとして稗(ひえ)かゆが主食といったありさまである。

さらにまた、原因は自分の失態(しったい)にあるのだから、決しておうらみするすじあいではないものの、上様(うえさま)の怒りをかい、あっちこっちさまよい餓死(がし)する者さえある始末(しまつ)である。