日本人にとって戦争とは?

三河教労機関紙2006年度連載

「日中・太平洋戦争と教育」

  

 

 

『日中・太平洋戦争と教育』

[連載のはじめにあたり]

 教育基本法が、そして日本国憲法が改悪されようとしています。

改悪しようとする人たちは、憲法が掲げた「不戦の誓い」の理想を引きずり下ろし、戦争ができる国、軍需産業で栄える国を目指しています。そして、憲法の原点とも言える「戦争責任に対する反省」を葬り去ろうとしています。

改悪を推進する人たちは、靖国神社や「新しい歴史教科書をつくる会」と同じように、15年の長きにおよんだ「日中戦争」と「太平洋戦争」は、日本の名誉を守るためにやむを得なかった戦争であり、日本軍による「南京虐殺」などはなく、あの「戦争」は「侵略戦争」ではなかったという異常な歴史認識をもっています。

 わたしたちは、教育基本法や憲法が改悪されようとしている今、あの「戦争」はどういうものだったのか、「聖戦」だったのか「侵略戦争」だったのか?そして戦前の教育はどんな教育だったのか?を今一度見つめ直す必要があると考え、シリーズ「日中・太平洋戦争と教育」を1年間にわたり連載します。

 

[変わる若者たち  戦争の実態をみつめ] 

 ある日のこと、職員室で若い先生たちが6年社会の授業について話をしていました。

「日中戦争は、前半日本が優位で、後半は…。」

「そりゃ、後半も勝っていたよ。中国戦線では、日本がつねに優位だったんだ。」

などなど。

 私は、たまたまそれを横で聞きながら、何かゲームのような、サッカーの試合のような話しぶりだなあ、と感じました。それでは、戦争の悲惨な実態は何もわからないのでは、とも思いました。そこで、若い先生たちに、

「戦争はゲームではないのだし、もっと実態を子どもらに知らせる必要があるのでは。」

「でも、それがなかなかないんですよね。いい資料がありますか。」

「それでは、私がビデオで撮った戦争の記録を見せたら。」

ということで、子どもらにビデオを見せることになりました。それは、「市民と戦争」というNHKの記録映画の中の『中国の闘い』というものでした。

 私がビデオを持っていくと、6年の若い教師は、早速子どもらに見せました。そして、その授業の感想を聞かせてくれました。

「先生、すごいですね。いつもは騒がしい子どもらが真剣に見てくれました。」

「見ている途中で、泣き出す子もいました。ちょっと刺激が強かったですかね。」

授業の後、子どもたちが、わたしに「先生のビデオ見たよ。」と声をかけていきました。

『中国の闘い』は、日本軍の残虐行為は少ししか扱っていません。それよりも、悲惨な状況下でも、あくまで闘うという中国民衆の姿重い荷物を持って日本軍から逃れ、転びつつ歩き続ける人々、空襲で逃げ惑う人々、そして、線路の枕木一本いっぽんをはがして抵抗する人々の姿が描かれています。

 子どもらは何に心を動かされ、何に涙を流したのでしょうか…。
その若い教師は、「また子どもたちに感想を書いてもらいますので、お見せしましょう。」と言ってくれましたが。
         

第1部 天皇の軍隊

 

 


第1部  「天皇の軍隊」

 1 侵 略

(1)アジアの人々の戸惑い 「東洋鬼」と呼ばれた日本人

ある朝、新聞を見ていて、アジアの人々の声に目が留まりました。

「一人一人の日本人は誠実でやさしい。同じ日本人があんな戦争を起こしたとは信じられない。」と。

 戦争を経験していないわたしにも、おじいさんと同年の人たちが、アジアの諸国で婦女子を含む民衆に銃剣を突き刺したという話は、信じ難いものです。

 

シベリア出兵兵士の日記  よき息子は戦場で「鬼」になった

1918年の「シベリア出兵」―日中戦争が始まる十数年前のことです。

この「出兵」で、日本兵3千名が戦死し、その数倍の兵が負傷しました。そして、激高したロシアのパルチザン部隊のために日本の婦女子が殺された(ニコライエフスクの虐殺事件)ことは教科書に書かれていますが、この戦争に従軍した日本人兵士が書き留めた日記は紹介されていません。「日記」は戦場での日本兵の心理を克明に描いています。

「第二線らしい壕(ごう)より残敵があらわれる。…突き伏せ、追い伏せ、逃げるやつ、刃向かうやつらを、ひと突きでブスリと、背より腹へ、腹より背へと田楽刺しに突きとおす。人間の体はやわらかので、フカかサメでも刺すように、おもしろいように突き通っていくのは、牛や豚のように皮が引きしまっていないからで、人間一人突き殺すぐらいわけはない。……頭といわず胴といわず、手あたりしだいに、倒れた戦友のとむらい、仇討に突いて突いて、突きまくって、さかんに追いうちをかけ、ブスリブスリと突き殺していくのであるから、こうなると戦争もおもしろい。戦友がバタリバタリ倒れるのを見てはいっそう興奮し、殺気だって、敵の一人でもよけいに倒したくなる。どうせ自分も戦死だ。命も何も惜しくない。同じ死ぬなら、いく久しき語りぐさに、敵の本陣へおどりこんで、じゅうぶん敵兵をやっつけて華々しく散って死のうと思った。これが、いわゆる大和魂というものだろう。敵の死骸を踏みこえて、誰よりもまっ先に突進した。」

(『シベリア出征日記』松尾勝造)

 

 

 

 

この兵士は、インノケンチェフスカヤ村の虐殺まで克明に書き残した。

日本軍によるロシア市民の死者は8万人に上るとされている。

 

 

「やさしき日本人」が、なぜ「戦場の鬼」になったのか。

 ロシアで起きたことは、その十数年後には、中国大陸ではるかに大規模に、民衆をも標的に繰り返されました。なぜ、こんな残酷なことができる日本人が生まれたのか。どうして平凡な青年たちが、殺しを何とも思わない殺人兵器になったのでしょうか。