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第1日目 2002/10/27 (日)
経路 徳島駅 霊山寺 (極楽寺 金泉寺 地蔵寺 安楽寺 十楽寺 法輪寺) 坂本屋 歩き距離 36千歩 25.2km 地図上距離 27.5km 出発 7時 到着 14時 晴れ すれ違ったお遍路さん 0人 宿屋 坂本屋 泊まりのお遍路 7人 25日出発の予定をしたが満員で座席確保できず(金曜は混むらしい)、10月26日(土)名古屋発23時30分の夜行バスで、久しぶりの徳島に向かう。座席は満杯。バスは、徳島駅経由松山行きである。高速道が出来て便利になった。高松駅経由は高知行きだ。 27日5時20分、徳島駅着。真っ暗、1番列車は5時51分、駅で小休憩。慣れないバスで、よく目を覚ましたので、多少眠い。直に、気動車が入ってきたので乗り込む。今度は、寝過ごさずに板東駅で降りる事。 板東駅着6時15分、少し、白み始めた、駅の写真を撮る。今回のお供のデジタル写真機である。本格的使用は初めて。 薄暗い道を1番霊山寺に向かう。私より速い遍路さんがいた。お寺さんは、戸締まりを解き掃除など始めていた。6時から朝のお勤めをしているのだろう。ここは宿坊があったかなと思う。 売店で、掛け軸17000円を購入。よく売れているからどうだとの勧めにより決めた。水に注意するようアドバイスあり。今回は、製図図面を入れるプラスチックの入れ物を用意した。店の人が笑っていた。 絹の布が厚めの地紙に留めてあり、軸に巻き付けてある。それをビニールの入れ物に入れる。皆さんはこれを肩に掛けたり、リュックに入れたりするが、私は、それをプラスチックの筒に入れた。 汗、軒の雨粒に注意と思う。 本堂と大師堂をお参り。札と賽銭を納め、本堂だけは般若心経をあげる。結構、覚えていたが、本を見て小さな声を出す(大分、図々しくなったが、声を出すのは、照れくさい。先回、結願した時と同じで笑えてくる)。 7時、明るくなり、歩き始める。10番の宿屋まで、お寺さんをパスして遍路道を行く。今日はたっぷりと時間があるのでゆっくり歩くことにした。 2番極楽寺を右に見て国道を少し行き旧道に入る。 3番金泉寺は、先回、大坂峠を越えてたどり着いたお寺さん。このお寺は、必ず、道を間違えるので、確認しようと門前まで行く。案の定、その後、間違えた。多分、次も間違えるだろうと思った 。(実際に、予定通り間違えた) 大学を右に見て、高速道を越えた所で、山 沿いの山道に入る。地図では思い出さないが、現地に来ると鮮明に道を思い出す。逆打ちは道に迷うと言われているが、自分の記憶に少し自信が持てた。 藍染院前を通り、4番大日寺はパスして5番地蔵寺へ向かう。途中、道が怪しくなり、今回初めて、道を尋ねた。親切に教えてくれた。田圃の畦道を通り、地蔵寺に出た。 6番安楽寺、7番十楽寺は道沿い。 8番熊谷寺。13時前。先回は、ここが2泊目であった。どんな歩き方をしたのかと思う。 9番法輪寺。先回、このお寺さんで、記帳開始を待つ、ものすごく綺麗な女遍路から、「まだ、7時になっていません。少し待ちましょう」と声を掛けられた。私も急いでお参りして、記帳して貰って、 話でもしようと急ぎ門を出た。 先ほど行ったばかりだったのに、田圃の真ん中のお寺さんなのに、何処にも見えない。勿論、朝早いので、聞いてみる人もいない。本当に不思議だった。白衣の40歳前後の本当に綺麗な人だった。 結願まで会う事はなかった。 今日は、昼間。店も開いており、何人かのお遍路さんに会った。昼食のうどんを食う。店のおばさんと世間話をした。 土成町秋月に、城跡があった。土豪秋月氏の城跡である。南北朝から室町時代、この地方に勢力を張っていたが、戦国時代、長曽我部氏に滅ぼされる。的場跡、泉跡、竈跡などが残っているとの事。 10番切幡寺門前の坂本屋に到着。14時だった。部屋に通してくれた。 夕食時、みんなと話をする。名古屋の車での2人連れ。水戸の男の人と名古屋の女性2人の車組。と私。泊まりは6人だった。 女性組はもう10回目くらいのベテランで、明日帰ると言っていた。10日ほどかかったとの事。2人連れはこれから順に廻るとの事。逆打ちは私だけ。
第2日目 2002/10/28 (月) 経路 坂本屋 大窪寺 八十窪 歩き距離 19千歩 13.3km 地図上距離 19.3km 出発 7時 到着 14時 晴れ 出発 7時 到着 14時 晴れ すれ違ったお遍路さん 2人 宿屋 八十窪 泊まりのお遍路 9人 初めての道(先回は大坂峠経由で1番にお礼参りした)を、大窪寺に向かう。舗装され、曲がりが少ない2車線の県道が、川の沿って山の中に入って行く。 紅葉には少し早いがすがすがしい山並みだ。山に1時間程入った、字犬の墓の地点で、初めて石碑に巡り会う。(10番切幡寺まではお参りした時に記録する事にした) 石碑の文字がほとんど読めないのが多い。時間を掛けて、表面を紙に採れば判るかもしれなかったが、それは止めた。又、そのある場所が何処か判らない。 (今回は5万分の1地図は持っていかなかった。へんろみち保存協力会編の地図のみ)聞く人もいない。バス停の名前、信号の名前が頼り。 そんな事で昼頃まで、地図上から字名を探しメモしていたが、だんだんと苦痛になってきた。ものすごく時間がかかる。結局、記録第1日目で、詳細な記録は放り投げてしまった。 写真は、デジタルカメラのため、日時が記録できるので記録は是のみに頼る事にした。ASA400に慣れていたため、ASA100レベルの感度のため、暗い所での感が掴め難かった。慣れるのに、1日を要した。 デジタルカメラの評価:思ったよりも綺麗に撮れる。フラッシュが余り有効でない。撮れる枚数500枚は頼もしい。 石碑は、道案内とお墓の2種類。字が読めない場合が多いので、その区別も付きがたい。ただ、お墓が大分あるらしい。無縁仏か縁者が後から立てたもののようだ。 道案内もお墓も、今の世で言う「役に立つものではない」のに、このように多数作られ、保存されてきた事に人間の人間らしい思いが現れている、と思った。 道の拡張などで、道際の石積の上などにまとめられて居るのが多い。このお墓は、安政5・・・、戒名・・・女、と読めた。 10時過ぎ、長野分校の追分けに到着。先回は、ここから黒川温泉へ向かった。この辺りが県境と初めて気付く。 11時過ぎ、地蔵堂。先回は、遅い昼飯のパンを食い、東京の女遍路さんと話をしながら長野分校まで歩いた、先回の歩きの事が鮮明に戻ってきた。1歩1歩みんな思い出して くるような感じで、目の前に現れてくる。不思議なものだ。この石碑は道案内である。 暫く行くと、ほぼ直線で、登って行く出来たばかりの車用の道に出た。歩くには、多少距離が伸びても曲がった道がよい、などと勝手に思いながら登る。 12時半、88番大窪寺に到着。寺門前の店で、昼食。 本堂、大師堂をお参り。掛け軸に記帳して貰う。逆打ちですな、と言われた。はいそうですと返事。このお寺さんは、3度目。2度目は、女体山越えの道を2001年5月に歩いた。きつい山越えだった事を思い出した。 13時過ぎ、少し早いが、宿へ行く。そろそろ一陣が到着するぞと言っていたところ、と言われたが、快く、部屋に入れてくれた。 今日のルートは、迷う所はなかった。順調な滑り出し。 夕食時、満願の人達のうれしそうな事、私もそうだったかな。私は逆回りと言うと、ぜひ、女体山へ登って行けと勧められる。そうしますと回答。 部屋に引き返す時、宿のおかみが、1つ越えて、後、車道を行けとアドバイス。私もそのつもり。おかみさんは、わたしが、すでに越えている事を見抜いている。口でしゃべった記憶がないので、質問された時の反応などの態度で判るのだろう。
第3日目 2002/10/29 (火) 経路 八十窪 長尾寺 玉泉寺 志度寺 八栗寺 岡田屋旅館 歩き距離 34千歩 23.8km 地図上距離 29.1km 出発 6時半 到着 16時 晴れ すれ違ったお遍路さん 5人 宿屋 岡田屋旅館 泊まりのお遍路 2人 大窪寺本堂お参り。すでに、お遍路さんがいた。何処に泊まったのだろう。野宿のようには見えなかった。 早速、本堂横の登り口から登り出す。急な坂道と思っていたが、そうでもない。途中、日が昇り、清々しい。奥の院に到着。 山道は、1人では難しいかなと思ったが、遍路道は、みんなが「がんばって」などの標を残してくれているので、極めて安心だ。 女体山頂上の休憩所で休憩。瀬戸内海方向を見る。山、樹木、空、海、霧が悠然として見える。30分程休憩して、下り始める。 突然、荷物を落としたら、5,60m下まで転がる急坂が現れた。ロープが1本張ってある。へっぴり腰で、尻をつき、ロープを持ち、ゆっくり降り始めた。誰もいないのに、へっぴり腰が恥ずかしかった。先回、坂が急だった程度の記憶しかなかったが、この坂は覚えがない。登坂は、割合、楽に登る生だろうと思う。 山越えは、もう1つ山越えがあるが、今日は、舗装の車道を下る事にする。この道も初めてである。 途中、昼寝城についての看板があった。戦国時代まであったお城らしい。随分の山奥であるが、防御の必要性が主たる理由だろうと思う。 長尾町大多和に多和神社。お参り。見慣れたダムの湖水が見えだした。湖水の向こう側右岸が、昔からの遍路道。 字大石で、石碑。道の際にまとめてあり、長尾寺近くの交差点にもたくさんの石碑がまとめてあった。 一畑御坊には、弁慶の馬の墓の石碑が建っていた。今日も、素通りする。 11時、87番長尾寺に到着。門前に、経幢(きょうどう)が2基あった。経文などを埋めた所などを示す石碑との事。13世紀の物らしい。 お参りして、記帳をして貰う。掛け軸は直ぐに書けるよう、記入する場所が直ぐ出せるように、巻き方を調整しておけと言われた。もっともと思う。はい判りましたと返答。まことに素直に返事が出来る。 なお、般若心経は、本は必要だったがちゃんと出来た。 境内に、静御前の剃髪塚があった。なぜ、ここにあるか判らなかった。遍路道の石碑を、調べたら面白いだろうと改めて思う。また、石碑が一箇所にまとまってあった。無縁の碑であろう。 遍路道を北へ、遍路橋で、右に曲がり、堤防道路を行く。橋のたもとに、遍路道案内があった。昔から、ずーと、ここにあるのだろう。 玉泉寺をお参り。 13時半、86番志度寺到着。本堂、大師堂お参りし、記帳して貰う。 不比等の子ら藤原3兄弟の1人、房前(8世紀の実力者)の母、「海士」の墓。 謡曲の親子愛の物語、時の実力者3兄弟の天然痘による、あっという間の死去、房前の妹で初めて皇族以外で皇后になった光明皇后の悲田院など疫病対策、など思い出す。 地蔵寺をお参りして、旧道を八栗寺へ向かう。牟礼町原交差点で、道に迷う。地図はJRを横断しないのに、まさに今、下を潜ろうとしている。 うろうろしていたら、地元の皆さんが集まってきて、いろいろ教えてくれる。いろいろ言われても判らないので、この地図で教えてと言ったら、俺の言うとおり行けば行けると怒鳴られる。 畏まって聞いてお礼を言ってその指示通り歩き出す。地図を初め、みんなの言った事、自分の考えた事ひっくるめてみると今歩いている道が地図の道だった。落ち着いて地図を見れば、何も難しい事はない。なぜ間違えたか判らない。 八栗寺の参道に入る。車道であるが、相当の急坂である。先回は、ここで、荷物を下の町役場に預かって貰って登ってきた野宿のお爺さんと会った。 16時前、85番八栗寺到着。お参りして、記帳。 門を出ると、向こうから大きな声で、服部さんですかと声を掛けられた。岡田屋さんだった。 水戸の方と2人宿泊。今回は、仏像を彫りたくなり、岡田さんに頼んで、石材を手に入れた。又、少し写真撮りをして帰るとの事だった。すでに、2、3回は廻っているようだった。写真撮りに興味を覚えたが、余り踏み込まずに終わった。 岡田屋のご主人はパソコンが得意のようで、写真を撮って、印刷して呉れた。ホームページには、まだ手が回らないとの事だった。私のホームページの名刺を置いてきた。 明日の宿、民宿みゆきと定め、電話をするも、出てくれない。岡田さんに聞いてみると、順打ちの人は百々家から来るとの事。早速電話。百々家はJR鬼無(きなし)駅の前との事。OKだった。
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第4日目 2002/10/30 (水)
経路 岡田屋旅館 屋島寺 一宮寺 百々屋 歩き距離 48千歩 33.6km 地図上距離 27.4km 出発 7時 到着 16時半 晴れ すれ違ったお遍路さん 12人 宿屋 百々屋 泊まりのお遍路 4人 八栗寺の参道を下る。山の参道は、石碑が結構あるが、樹木が深く茂る場所は、写真が暗く、フラッシュをたいても、うまく撮れない。 屋島の参道まで、古い町並みの道であったが、屋島小学校横の参道にうまく到達。 ただ、常に地図をよく見て遍路マークを振り返り確認して(大体、ここにはありそうだ、と勘が働く。ズバリ当たるとニヤニヤしてしまう)、少しでも疑問に思った時は、立ち止まり、地図を広げて確認した。この辺りの遍路道は旧道、これもうまく行けた理由の1つ。昨日のチョンボの反省 と今日の歩きの心構え。 割に急な屋島寺参道を登る。御加持水の石像群。 9時過ぎ、84番屋島寺山門。山門を過ぎて、左に面向不背の珠碑。 謡曲「海士」に「玉中に釈迦の像まします。何方より拝み奉れども同じ面なるによって、面を向ふに背かずと書いて面向不背の珠と申し候」の文句があり、 もう1つの玉と共に、藤原氏のお寺興福寺に納められたとある。 もう1つの玉があったが、ここの海の竜宮に捕られてしまった。この玉を取り返しに、房前の大臣の母親、ここの海士が竜宮に行き、乳の下を欠き切り玉を押し込んで生還する。是が謡曲「海士」の内容。 本堂、大師堂お参り。新しい石碑群が境内にあった。 同じ参道を下り、国道を西に向かう。讃岐別院は寄らず、栗林公園方向へ遍路道を行く。琴電踏切、JRの高架下を正確に潜り抜けた。がここでミス。 高松鷲田郵便局辺りで(郵便局の確認が出来なかった)、斜め左に曲がる所を真っ直ぐ行ってしまった。1kmほどこのミスに気付かなかった。国道に出てから遍路マークも少なくなり、確認は不足がちであったので、相当注意していたが、間違えた。 遍路地図は遍路道が赤で表示してある。広い道と思いがちである。今回も、よく見れば、判ったはず。大窪寺の女体山は余り気にならなかったが、山道は平地以上に気を付けて点検して行こうと思った。 15kmほどを5時間かかり漸く14時過ぎ、田村神社に到着。お寺へは真っ直ぐ行けなかった。神社をお参りして、南の鳥居に向かってから右に曲がり、83番一宮寺到着。 一宮寺お参り。JR鬼無駅に向かう遍路道は、初めてのため、地図通り行こうとした。 歩く方向は間違えないが、個々の道は、ほとんど違っていたようだ。遍路マークがあったりなかったりで確認できなかったが、香東川の「川の中の橋」は渡った。鬼無駅の辺りの旧道に出るまでの道も、宿に入ってから地図上に落とせなかった。それでも、途中で、順回りの遍路さんと立ち話と道の確認はした。 今夜の宿の百々屋さんも、電話を3回してしまった。
第5日目 2002/10/31 (木) 経路 百々屋 根香寺 白峰寺 国分寺 高照院 郷照寺 BHニューキャッスル 歩き距離 60千歩 42km 地図上距離 33.9km 出発 6時半 到着 17時 晴れ すれ違ったお遍路さん 13人 宿屋 BHニューキャッスル 泊まりのお遍路 1人 百々屋さんから根香寺への歩き遍路道を教えて貰ったが、少し戻る事と道がややこしく、良く判らないので、宿の目の前の車道を行く。 先回は、81番白峰寺、82番根香寺、80番国分寺、83番一宮寺の順だったので、この道も初めて。 歩きでのある山の舗装道路。ただただ、歩くだけだが、見晴らしが良いので助かった。山の上の車道に出た。これは前に通った道で、思い出した。 8時半、82番根香寺に到着。8km、2時間を要した。山道の歩きが、足も軽く早くなった。漸く、足の疲れが、1晩寝ると元通りに成りだした。 根香寺お参り。般若心経もあげた。 これから、81番へ行き、80番へ山を下り、79番へと行く。 五色台スカイラインの入口近くの食堂。先回、漸く飯に有り付いたのを思い出した。ここから、山の歩き遍路道に入る。三叉路、80番への分岐点を過ぎる。順調に歩く。 10時半、白峰寺裏の崇徳天皇陵到着。どうしても寄る予定だった場所である。 多分、又、花が供えてあればいいのにと期待していながら、もしかしたらないかもしれない、と考えながら、長いお墓より立派に見える階段を登る。 粗末な鉄の柵の中に、菊の花が2束あった。誰が供えるのか判らないが、花があった。先回もあった。 私と同じように思う人が、まだ日本にいるのだと、感激し、たたずむ。 あの西行も、天皇が仁和寺に逃げ込んだ時は、直ぐに出かけたのに、ここへ流されて死ぬまでの9年間1度も来ず、死んだ後も何年も来なかった。 西行 白峰と申しける所に、御墓の侍りけるに、まいりて 「よしや君 昔に玉の ゆかとても かからん後は 何にかはせん」、と不幸な天皇への絶唱である。 81番白峰寺お参り。お札を納め、お経を上げ、記帳を済ませ、今来た道を引き返す。先の三叉路の大分手前で、車道に出る。 80番へのへんろころがしの坂への入口も迷わず見つけ、この急坂を下り始める。途中、昇りの遍路さんと会う。 人家のある場所に出てからの国分寺への道も、迷わず行けた。先回は、迷い遠回りしたが。 13時、80番国分寺お参り。 昼食をすませ、ここから鉄道沿いの国道を行く。 15時過ぎ、79番高照院天皇寺お参り。八十場の泉をを見て旧道を行く。 16時半過ぎ、78番郷照寺お参り。このお寺さんは全然思い出せなかったが、門を見たら、みんな思い出した。歩く事は、本当によい事だ。 足の痛いのを忘れ、思い出した事に大喜び。ただ、歩くのはお金が掛かかり贅沢である。 今日は、丸亀市内のBHニューキャッスル泊。郷照寺からのたった2kmほど、距離があった。少し大変だった。着いた時は、真っ暗だった。今日は良く歩いた。 第6日目 2002/11/01 (金)
経路 BHニューキャッスル 道隆寺 金倉寺 善通寺 甲山寺 出釈迦寺 曼茶羅寺 弥谷寺 歩き距離 53千歩 37.1km 地図上距離 37.6km 出発 6時 到着 16時半 雨 すれ違ったお遍路さん 8人 宿屋 一冨士旅館 泊まりのお遍路 1人 初めての雨。カッパはリュックを含めて上から被る一体のものにした。風で、裾が振れ、車に巻き込まれる恐れがあるが、蒸せない、着脱簡単、濡れない、で成功。 6時は、まだ暗い。通りの少ない立派な県道を行く。 7時半、77番道隆寺に到着。まだお寺さんは静かだ。 お寺さんは、7時から17時まで、毎日休みなく納経所を開いている。地震、台風、正月でも開いている。大変な事と思う。納経所に、1人も来なかった日は、1日もない、と聞いた事もある。 また、舗装道路を南に向かう。金倉寺の近くの歩きの道分岐点は、見落としたので車道を行く。 8時半、76番金倉寺。 平地のお寺さんは、多少の道の間違いは影響なし。高い塔、大きな本堂が見えており、安心して行ける。その分、地図を見るのが少なくなる。 9時半、75番善通寺。地元のおじさんが話しかけてきた。お寺から、大分離れた所で見かけたが、道に迷わず、よく着いた、とお褒めをいただく。車で来るのとそう変わらない、との事。どこからきたか、から始まる、いつもの質問攻め。丁寧に答える。最後に、74番への道を聞く。正確に教えてくれた。 病院の横を通る遍路道を行く。先回、甲山寺前の川岸に捨て猫がいたことを思い出した。 10時半、74番甲山寺。お参りを済ませ、 迷わずに遍路道を行く。 11時半、72番曼陀羅寺。 12時、73番出釈迦寺。 善通寺から、お遍路さんが増え、記帳に時間が掛かる。イライラはしなくなったが、後ろで観光バスの音がすると、急ぎ納経所へ行く。1番霊山寺まで、これは直らなかった。追い抜かれた時は、きっちりと諦め、ゆっくり境内を見て歩く事が出来るようになった。 弥谷寺への道を教えて貰い、2つの大きな池の間を通り、高速道路を抜け山に掛かり、舗装した急な道を登る。暫く登るうちどうもおかしいと感じた。30分登ったかもしれない。急ぎ、戻る。 地図をよく見ると、高速道路を潜った所で、左に入り、池の横を行かなければならない。直ぐ、戻り、直ぐ見つけ、よく見ると、遍路マーク、遍路札もちゃんとある。 確かに、左に曲がる所は、判りにくいが、注意すれば判る。急な坂の舗装道路は、地図からは読めない。ほんの少し前に高速道路手前で、お遍路さんとすれ違い、お互い、道の確認をした、なのに間違った。 高い山越えは、慎重に越えようと思う。 宿屋俳句茶屋が店を閉めていた。石碑が沢山あったように思っていたが、写真は余り撮ってない。チョンボの遅れを取り戻そうと急いだのかもしれない。 13時半、71番弥谷寺到着。覚えのある本堂までの長い階段を登る。 秀吉に攻め滅ぼされた、弥谷寺の隣り天霧山(あまぎりやま)の天霧城主、香川氏のお墓があった。昭和59年住職が、お参りする人のないお墓をここに移し 整備したとの事。皆殺しになったんだろう、と勝手に思った。記録も残っていないのだろう。 参道を下る。途中から道が舗装道路となる。こんな立派な道だったかなと思いながら、なお下ると、見覚えのある、ほこらを右方の小道沿いに見つけた。地図の遍路道はこの旧道だった。 また、道を間違えたかと思ったが、新しい道が出来たと納得。昼飯を食べた「うどん喝屋」もあった。 時間を使い果たし、本山寺へ17時までには入れそうもない。少しずるい事を考えた。 遍路道から右にとり、JRみの駅に向かう。15時過ぎ、みの駅着。駅で地元の人に話しかけられた。いつもの質問があった。丁寧に返答。自分も何回か遍路したと言っていた。 15分で、観音寺駅着。歩くのに比べて実に早いし、疲れない。ちょっと、引け目に思う。40年以上、鉄道のように効率第1、期限までに確実に仕上げる、で生きてきた。 一瞬、なぜ、今、歩いているのだろうと、頭に浮かぶ。 16時過ぎ、69番観音寺、68番神恵院に到着。納札、賽銭、お経を上げて、記帳して貰う。神恵院の本堂がコンクリート造りで立て替えられていた。 本山寺へ向かう。先回、通った財田川沿いの道。この信号を越えると、歩道が無くなる。あの信号を越えたら、川を渡り田圃の真ん中を行く。1歩1歩、みんな覚えている感じ。いい気な物だと、自分ながらおかしく思う。 本山寺に着いた時は、真っ暗だった。一冨士旅館の場所が判らず、2度電話する。宿に着いて、理由を考えてみると、方向を間違えていたようだ。 歩き距離 53千歩 37.1km はメーター通りだが、少し、多すぎる、原因は不明。がそのままとした。地図上距離 37.6km は鉄道分も含む距離。 明日の泊まりは、雲辺寺を越えた所と思い、予約を入れたが、何処も満員でだめであった。(明日は土曜日だった事を忘れていた) やむを得ず明後日を予約し、明日は、雲辺寺登り口の大興寺泊まりとした。 先回、宿の予約は当日だったが、全然泊まるところがなかったことがあり、その反省も含めて、今回は、初日から、前日に予約する事にした。 当日予約は、必ず、今どこにいると聞かれたが、前日予約だと、聞かれなかった。なるほどと思った。
第7日目 2002/11/02 (土) 経路 一冨士旅館 本山寺 大興寺 萩原寺 おおひら 歩き距離 34千歩 23.8km 地図上距離 19.1km 出発 7時半 到着 15時 雨 すれ違ったお遍路さん 3人 宿屋 おおひら 泊まりのお遍路 5人 もう1日、香川県側に泊まる事になって、良い事があった。 実は、高校の同級生村越君が、番外20番を車で廻っていたが、 どこかで1泊しようとしていたが、行程の調整がうまくいかず、一緒になる事は諦めていた。しかし、1日ずれて、今日、大興寺際の「おおひら」で一緒になる約束が出来た。 「人間万事塞翁が馬」と言うが、ほんとうに何が幸いするか判らない。あわてない、あわてない、である。また、1つ勉強が出来た。 今回、遍路に立つ時、彼も、すでに、八十八箇所は歩いて結願していたので、逆打ちを知らせてあった。2、3日前に、突然、何処にいるかとの電話が入り、連絡し合っていた。 今日は、予定変更で、本山寺、大興寺、番外の萩原寺をお参りする事にした。出発は7時半。 70番本山寺お参り。 本山寺から大興寺への道は、初めてだ。先回は、大興寺から観音寺へ向かった。 財田川に沿って東に向かう。途中、川を越え、南下した。この南下で、道を間違え、一ノ谷池には出られなかったが、地図で、十分に読めていたので、少し遠回りになったが、問題なく到着できた。 9時半過ぎ、67番大興寺。お札を納め、賽銭、般若心経をあげ、記帳して貰った。 萩原寺に向かう。さすがに、お遍路さんとは会わな かった。 13時、番外16番萩原寺着。参道には萩が植えてあった。看板に寄れば、雲辺寺、萩原寺は萩の名所との事。 本堂、大師堂をお参り。お札を納め、賽銭を上げ、般若心経を唱えた。別格20番の納経帳があったので求め、記帳して貰う。 また、数珠の玉1個、その親玉も購入。これは番外20寺が1個ずつで、数珠が出来上がるとの事。 雨は止む。舗装道路を引き返し、途中から、雲辺寺への遍路道に入る。立派な道が出来、様子が変わっていた。 15時、おおひら着。風呂に入る。 16時半、同級生、村越君到着。遍路、家庭の事など、食事時を含め、話が尽きなかった。 番外20番は、車で5、6日で回れるとの事。 第8日目 2002/11/03 (日) 経路 おおひら 雲辺寺 岡田 歩き距離 20千歩 14km 地図上距離 14.1km 出発 6時 到着 14時 曇り後晴れ すれ違ったお遍路さん 13人 宿屋 岡田 泊まりのお遍路 7人 八十八箇所の最高の高さ920mにある雲辺寺に向かう。粟井川に沿った道が立派な道に変わっていた。舗装道から山道に入る所も良く判った。 山道に入ってからも、遍路札が無いかなと探す時には、遍路マーク、遍路札が現れ、間違いなく遍路道を行けた。所々、林が切れると、観音寺の町がまぶしい。 頂上近く、平らな箇所に出ると、五百羅漢が並んでいた。大きな像、数で、迫力があった。 9時半、雲辺寺到着。先回は、雨でもやって、写真が撮れなかった。お参りを済ませ、本堂、大師堂、遊園地、歌碑、御詠歌碑など写真を撮る。 ケーブルカー駅に行ってみた。食堂があり、子供達が沢山来ていた。今日は日曜日。また、スキーの設備もあり、大きな遊園地。 香川、徳島の県境の表示が地面にあった。 11時半まで、雲辺寺で過ごし、昼食のパンを食べる。体を休めると寒い。 しばらく、覚えのある平らな道を行く。山道に入る所もバッチリ。紅葉も始まりだした。 先回、工事中であった高速道路も開通していた。 14時、岡田到着。 1日の遅れ挽回のため、明日は、JRを使う事にして、61番香園寺に宿の予約をした。 夕食時、懇談。若い人達が良く喋った。私も、このように若かった時があったな、など頭に浮かべながら、聞いていた。
第9日目 2002/11/04 (月)
経路 岡田 椿堂 三角寺 JR伊予三島駅−−40km−−石鎚山駅 歩き距離 47千歩 32.9km 地図上距離 29km 出発 6時半 到着 17時 雪後晴れ すれ違ったお遍路さん 10人 宿屋 香園寺 泊まりのお遍路 6人 雪の朝。びしょびしょで、あまり積もらない。舗装の道がよく滑る。 8時半、番外14番椿堂。お参りし、記帳、数珠玉を受ける。雪は止んで、道も乾き始めた。 先回、三角寺から椿堂は国道を歩いたので、今回は地図の遍路道と思っていたが、雪が降ったので、今回も、国道を行く事にした。 三角寺への昇り口は、高速道路と交差する所だったと思ったが、ここで間違えたらとんでも無い所へ行ってしまうと思い、また、地図にも載っていない分岐点なので、ガソリンスタンドと、薬屋さんに飛び込み、親切に教えても貰った。間違いなく、三角寺へ行けた。さすがに、お遍路さんとは、会わなかった。 10時半過ぎ、65番三角寺到着。お参り。 境内に、一茶の句碑があった。「是でこそ 登るかいあり 山桜」 山門を出て、ながい階段を下り、道を左に折れて、三島に向かう。発電所と公園の間を通り、高速道路に沿って、暫く行く。ここは良く覚えていた。 三島の町の中の遍路道は地図通りには行けなかった。違っている事は判ったが、どの道を歩いているかは判らなかった。それでも、伊予三島駅までは、楽に行けた。 13時半、JR伊予三島駅から石鎚山駅まで、約40km、気動車に乗る。 石鎚山駅を降り、少し戻り、旧道に出て前神寺へ。 14時半、64番前神寺お参り。旧道を行く。 15時半、63番吉祥寺お参り。車道を行く。道が1車線のためか、よく混んでいた歩きにくかった。 16時半、62番宝寿寺お参り。 16時半過ぎ 61番香園寺お参り。 泊まりは、お遍路仲間6人だけだった。東京の石川さん、長崎の鷹峰さん(女性)、深谷さん3人組、荷物を預かって貰って、横峰寺は往復するとの事。
第10日目 2002/11/05 (火) 経路 香園寺 横峰寺 栄家旅館 歩き距離 35千歩 24.5km 地図上距離 26.8km 出発 6時半 到着 15時半 曇り後晴れ すれ違ったお遍路さん 12人 宿屋 栄家旅館 泊まりのお遍路 1人 標高700mの横峰寺に向かう。香園寺を出て、西に向かうが、出た所で、遍路道を外れてしまう。しかし西への道があり、見通しも良いので、その道を行く。今度は、南に曲がる箇所が判らなくなった。怪しい4叉路で、地元の人に聞くが、真っ直ぐ行けと言う。どうもはっきりしない。 もう少し歩いて、又、道を聞くと、この道でよい。もう少し行き左へ曲がれとの事。お礼を言って、別れ、姿が見えなくなってから、どう見ても行き過ぎと判断して、戻ることにした。(後で、地図を良く確認すると、湯浪を通る道に出る。 地元の人は、湯浪の道を車で行き、後、1時間程歩いて、横峰寺へ行くとの事) 最初、聞いた場所の4叉路に来て、再度聞く。 今度は、「歩いて、奥の院を通って横峰寺へ行く道」、と聞く。ここを南に曲がり行けとの事。池の横に出ますかと聞く。出る、と返事してくれる。是で間違いなしと安心して教えて貰ったとおり進む。 車の行けるこの道を、暫く登ると、池(後で確かめると大谷池だった)あり。遍路道を示すマークもあり。途中で、この道から、東方向に、細い山道 があり、右方向の矢印のある遍路マークもあり。多分、香園寺近くの高鴨神社まで、この山道だろう。 自分でも、びっくりする程良く覚えている場所も沢山あったが、極めてあやふやな記憶しかない箇所も随分ある。遍路地図は、本当にありがたい。へんろみち保存協力会の皆さん、ほんとうにありがとう、です。 ミスの反省:間違えたら、戻る事。 歩いて行く道を聞く事。 記憶はあやふやと思え。 間違いは当たり前と思え。 8時、奥の院到着。お参り。 遍路マークをしっかり確認しながら、山の道を登る。途中、戻る事もなく、順調に登る。 11時半、60番横峰寺。お参り。 納経所で、湯浪道への入り口を確認して、降り始める。暫く行くと、りっぱな車道に出た。先回もここで休憩した。今回もいっぷく。ここからは舗装道路。 道路の山側の壁に、お遍路の途中、ここで弘法大師と出会った、感激したと書かれた石碑あり。 逆打ちは、大師に会える場合が多い、と何回も聞いていた。私は、未だ、出会っていない。信心が足りないのかもしれない。 丹原の町で、地元の人に捕まり、30分程立ち話をする。昔は、良く遍路に出たとの事。今でも、遍路したいと思っているが、家の人に留められているらしい。 1つ、地元にお返しが出来た。
第11日目 2002/11/06 (水) 経路 栄家旅館 国分寺 仙遊寺 栄福寺 泰山寺 南光坊 H都 歩き距離 50千歩 35km 地図上距離 30.8km 出発 6時半 到着 16時半 晴れ すれ違ったお遍路さん 15人 宿屋 H都 泊まりのお遍路 1人 昨夜も、私1人だった。1人でも、いやな顔はせず、よく泊めてもらえる。ありがたい事だ。 遍路道を行く。 逆回りは、ほとんどの人との、ほんの一瞬の出会いでしかない。土地の人や、宿のおかみさんとは、もちろん、話をするが、お遍路さん同士の抜きつ抜かれつの何回かの再会は楽しかった事を思い出す。そろそろ人恋しくなりつつある。私は、1人では生きて行けないなと思う。 日切大師堂をお参りして、8時過ぎ、臼井の水に到着。水が湧いていた。句碑あり。臼井御来迎の本坊をお参り。 小休憩し、歩き出す。地元の人とも会わない。誰とも会わない。道安寺お参り。世田薬師はお参り省略。 10時半過ぎ、59番国分寺到着。元気の良いタオル屋さんが健在。道を教えるから、後寄れとの事。 手を洗い、お札を納め、賽銭をあげ、般若心経をあげる。天気が久しぶりでよい。元気が出る。記帳して貰う。 タオル屋さん、良く顔を覚えていて、呼び込んでくれた。 あそこに見えるのが、仙遊寺、だから迷うことはない。鉄道を越えたら、右へ曲がれ、後は一本道。的確な説明ありがとう。 仙遊寺近くの山には、新しい自動車道が出来ていた。遍路道は、横断すれば、又、続いていた。 先回、夏だった。山門の手前の広場で、裸になり地べたに寝ころんで休んだことを思い出す。その時、途中から一緒になった相棒が居たが、名前と顔が思い出せない。 12時半過ぎ、58番仙遊寺着。お参り。お寺には遍路さんが沢山いた。車の人達らしい。 仙遊寺から降りる途中、来島大橋が見えた。 先回、この橋の開通初日を見落としていて、途方に暮れたことを思い出す。大月町の月山神社を過ぎた昼過ぎ、宿に予約を入れても、みんな満員。昨夜泊まった、土佐清水の宿に電話しても満員。見かねた地元の方が家へ来いと言われ、お世話になった。奥さんが、いやな顔もしないで、世話をしてくれた。本当にありがとうございました。 池の縁の遍路道を通り、栄福寺へ。 14時、57番栄福寺お参り。蒼社川の旧遍路道横断地点、老人ホームも通過。遍路道は間違いなく進む。 15時、56番泰山寺。今治の町の遍路道、所々、一筋、道を違えるが、方向さえ間違えなければ、よいので気が楽だ。 16時過ぎ、55番南光坊。記帳のお坊様が、謡曲の本を広げていた。話しかけようとしたら、次のお遍路さんが入ってきたので止めた。
今日は、人恋しい1日だった。 第12日目 2002/11/07 (木) 経路 H都 延命寺 鎌大師 JR伊予北条駅−−8km−−堀江駅 伊予路 歩き距離 50千歩 35km 地図上距離 29.6km 出発 6時半 到着 16時 晴れ すれ違ったお遍路さん 7人 宿屋 伊予路 泊まりのお遍路 1人 今治市内の住宅地で、延命寺手前の市墓地への道がどれか判らなかった。2,3度間違え、散歩の人に聞いて、ようやく墓地へたどり着く。 聞き方がまずかった。1番手前の墓地事務所を聞けば良かった。墓所へ行く道と聞いたので、その人が行く道を教えてくれたのだ。 広い車道を行っても良かったが、先回は、延命寺からこの墓地へ来るのに迷ったことを思いだし、遍路道を行く気になった、そして迷った。 墓地にたどり着いてからは、順調に高速道路を潜り、ばっちりと、延命寺裏山の墓地へ来られた。 8時過ぎ、54番延命寺。お参り。先回、おばあさんに、良く歩いて廻っている。感心である。とほめて貰って、接待して貰った境内でしたが、今日は誰も居なかった。 先回、道を間違え行けなかった鎌大師へ向かう。21kmあり、車道を歩き出す、もくもくと歩くのみ。大西町に一里塚あり。菊間町に入り、右側道下の青木地蔵、 左に遍照院。 先回は鎌大師へ行く遍路道へ入り損ない、海岸沿いの車道を通ってしまった。浅海駅を通過して、鎌大師への分岐交差点到着。 今日久しぶりの山道、舗装はしてあるが、昔からの遍路道。気持ちが落ち着く。 14時半、鎌大師到着、お参り。 句のない芭蕉碑、 14世紀建武の中興の頃の13人塚 、があった。 鎌大師の山を下ると、北条の町に入った。 JR北条駅から、堀江駅まで、8kmほど鉄道の世話になる。
第13日目 2002/11/08 (金)
経路 伊予路 円明寺 太山寺 石手寺 繁多寺 浄土寺 歩き距離 46千歩 32.2km 地図上距離 27.2km 出発 7時 到着 17時 曇り すれ違ったお遍路さん 4人 宿屋 長珍屋 泊まりのお遍路 1人、団体客多 宿から、遍路道に戻らず車道を行った。途中、道路工事中で地図と合わず慌てたが、じき、円明寺に着く。町は通勤通学の人達が忙しく歩いている。私は何か悪いことでもしているのかなと一瞬思う。 7時半、53番円明寺。お参り。誰も居ない。 太山寺へ向かう。車道を西に向かう。先回通っている道であるが、覚えはない。都会の道は、覚えにくい。まもなく、一の門が見えてきた。 8時、52番太山寺お参り。 歩きでのある参道を昇り、本堂、大師堂をお参り。記帳して貰う。 山頭火の句「もり・・もり あがる雲 へあゆむ」などの歌碑が3つあり。 これから松山市街を南東方向へ横断。大川沿いの遍路道、松山大学のグランドを見て、道後温泉。 石手寺少し手前で、案内板に従って、左に入り、暫く行くと石手寺境内に入った。初めて見る、「葉桜の 中の無数の 空さわぐ」 (篠原)梵らの歌碑、石仏があった。 曼途羅(マントラ)洞窟入口で、お賽銭を上げ洞窟に入る。杖を衝いて裏の出口へ。再び戻り、本堂裏を通り、再び日の光を浴びた。 先回、いろいろな思い出のあったお寺さん、ゆっくり境内を歩き回った。 本堂、大師堂お参り。賽銭、お札、般若心経を上げ、記帳。 12時半、51番石手寺正面に。お接待のムスビをいただく。 真っ直ぐ南に。まもなく、地図の点々道の遍路道へ入り、八幡三島神社も確認した。上手に繁多寺へたどり着く。 13時、50番繁多寺お参り。坂道を下り、なお南下。 13時半過ぎ、49番浄土寺お参り。鉄道を越え、南へ。西林寺が見える。車道に面したお寺を思い出した。 15時、48番西林寺お参り。 車道から、札始大師堂への右折れは、難なく見つけ、15時半、札始大師堂お参り。近くの墓地に古いお墓がまとまって建っていた。 16時、文殊院お参り。番外のお寺さんは、帳面に記帳して貰う。本堂を写真に撮るのを忘れる。新しい綺麗に彫られた仏さんがあった。 16時過ぎ、47番八坂寺お参り。山の道の石仏が目に入り、撮るが、露光不足。フラッシュが少し弱いかな。 16時半過ぎ、46番浄瑠璃寺お参り。
第14日目 2002/11/09 (土) 経路 長珍屋 太宝寺 太宝寺 歩き距離 26千歩 18.2km 地図上距離 16.5km 出発 7時 到着 14時 雪後雨後曇り すれ違ったお遍路さん 3人 宿屋 太宝寺 泊まりのお遍路 3人 一本道で迷いようがないと思いつつ遍路道を行く。しかし、いつまで経っても、出口橋がない。 浄瑠璃寺近くでは、見つからなかった売店があり、昼食用にパンを買って、道を聞くと、この道で太宝寺へ行けると言う。ちょっとおかしいと思いつつ、なお行く。 なお、15分程歩いた所で、農作業している人に再度道を聞く。2,3人集まってきて、いろいろ教えてくれる。行けるが遠回りと言う。”桜”に出る道もあるが、判りにくいとも言う。歩いて三坂峠に行く遍路道と念を押して聞くと、この山の1つ向こうの谷、”桜”を通ればよいとのこと。ただ、自分で、歩いて三坂峠に出たことはないようだ。 地図をよく見て漸く理解できた。左に曲がって、出口橋を渡るべきを、真っ直ぐ来てしまった。谷を1つ間違えている。真っ直ぐ行けば、国道33号に出て、三坂峠へ行けるとの事。戻るか、このまま行くかは、お前が選ぶことだ、の雰囲気。 お礼を言って、戻ることにした。 又、同じミスをした。地図をよく見てなく、道を左に曲がることを見落とす。店で歩いて行く道を聞かなかった。 地図をよく見て、途中で右に曲がり山沿いに行く。榎橋に出る。先回、ここで、右か、左か迷ったことを思い出す。ようやく網掛け石に着く。1時間以上費やす。やれやれである。 8時半、網掛け石大師堂お参り。ここも先回、峠越えして、漸く安心して、休んだことを思い出す。 ”桜”を通り過ぎた所で、数匹の犬と一緒の地元の人に会う。この犬は猪を良く追い出す、この犬は年寄りだとか、世間話をする。 三坂峠到着。雪。先回は、風の強い雨だった。峠からは国道33号を行く。ばかに長く歩いた感じがした。 雨に降られ、非常に寒い。喫茶店を見つけ、一服。この喫茶店は、先回もお世話になった。ただし、ママさんは覚え無し。 太宝寺参道で、お接待を受ける。現金をいただく。雨は上がり晴れだした。明日の昼飯もパンと決め、店を探すもなし、大福餅があったので、是を買う。 今日は、ミスして時間を使ったが、何だかんだと苦労して時間を浪費して昼過ぎになった。 13時半、44番太宝寺。本堂、太子堂お参り。境内に、石 仏が集めてあった。 14時、早かったが、いやな顔もしないで部屋に入れてくれた。
第15日目 2002/11/10 (日) 経路 太宝寺 岩屋寺 リバーサイトフジ 歩き距離 35千歩 24.5km 地図上距離 20.6km 出発 7時半 到着 15時 曇り後晴れ すれ違ったお遍路さん 2人 宿屋 リバーサイトフジ 泊まりのお遍路 1人 同宿のご夫婦と、ほぼ同時刻に出発。ご夫婦は、打戻するとの事で、荷物が少なかった。私は、槙谷に出る予定。 山の遍路道は、石仏が多い。トンネル際に出る。暫く、車道。 河合の交差点で、ご夫婦の知り合いのお遍路さんと会う。浄瑠璃寺へ向かうとのこと。道を聞いて見えた。岩屋寺から降りてきたと思われるが、さすがに早い。 8時過ぎ、狩場休憩所到着。ご夫婦とは、この辺りまで、ほぼ一緒だった。 8時半過ぎ、ふるさと旅行村で小休止。盛りは過ぎてるようだったが、紅葉が綺麗だった。 10時、八丁坂峠。岩屋寺お参りの後、ここを榎谷に下る。 平坦な尾根道。やがて下りにかかると、逼割禅定の行場。 11時、45番岩屋寺着。本堂、大師堂お参り。紅葉が綺麗。早い昼食とする。昨日の大福餅を食う。ご夫婦と行き会い、是でお別れ、互いに元気で行こうと挨拶し、又山道を上がった。 13時半、八丁坂茶屋跡に到着。槙谷への道に入る。初めての道。通る人が少ないようだ。道がとぎれとぎれになる。1箇所、土砂崩れで、四つん這いで越える。傾斜がゆるくて良かった。 人家が見え始めた時、若いお遍路さんと行き会う。盛んに先の道を聞かれる。初めてのようである。土砂崩れが1箇所あるが、道なりに行けば、八丁坂の分岐点に出ると教える。初め、不安げであったが、元気に登っていった。 民家の庭先の道で、幾分不安な感じ、さっきの若者もそのように感じ、私を見て安心したんだなと思う。何かいいことをしたような気がした。 13時半、小さな紅葉が綺麗だったので、写真にしたが、感じたようには撮れなかった。素鷲神社、槙谷公民館、槙谷学校跡。時の流れがないような、落ち着いた土地。しかし、過疎地の風景であった。 国道33号に出た。15時、新落合橋のリバーサイトフジに到着。
第16日目 2002/11/11 (月) 経路 リバーサイトフジ ハイプラザうちこ 歩き距離 61千歩 42.7km 地図上距離 34.1km 出発 6時半 到着 16時半 晴れ すれ違ったお遍路さん 21人 宿屋 ハイプラザうちこ 泊まりのお遍路 1人 今日は、歩くのみ、内子まで行く。落合橋を渡り、国道33号から別れ、国道380号へ。天気はよいので歩くのには、最高。 分水嶺の新真弓トンネルを越えた、大平の急な下り坂の遍路道を間違え、半分は国道を歩いた。三島神社へ出た。先回、ここから北のひわた峠に出ようと、山に入ったが、道に迷い、3時間ぐらい掛かり、元に戻ったことを思い出す。今回は、下りであり、多少、道も知っているので、国道の遠回りも苦にならない。 今日は、お遍路さんと良く会う。 小田町に入り、旧道を行く。先回は、ここで泊まった。泊まった旅館もあった。国道が新しくなり、所々新道になっていたり、工事中である。 突合の交差点。大きな橋を渡り、内子町にはいる。 12時過ぎ、楽水大師堂お参り。道も狭く、川も前の通りで、安心した。国道があまりに良くなっていたためだ。 山本商店の千人宿記念大師堂も、健在だった。 黙々と歩く。不思議なことに、暇で困ることがない。目に入る景色、耳に入る音、覚えのある道角などから、いろいろ連想することが多く、それぞれ、楽しい思いが、次から次へと頭に浮かんでくる。子供も育てたし、このまんま死んでもいいなとも思う。 15時、内子橋。”フレッシュパークからり”があった。一服して、旧道に入る所が判らなかったので、道を聞く。 15時半、内子の白壁の町に。本芳賀家住宅と庭。上芳賀邸、白壁の家。坂道の町。芝居小屋の内子座。 今日の宿は、内子駅の西側、遍路道に沿った所にあった。 宿で小包を扱ってくれるか問い合わせするとOK。着る物、雨具など余分な物と土産のせんべいを荷造りして、家に送り出す。大分、荷が軽くなった。
第17日目 2002/11/12 (火) 経路 ハイプラザうちこ 十夜ヶ橋 松屋旅館 歩き距離 51千歩 35.7km 地図上距離 34km 出発 7時半 到着 16時半 曇り後晴れ すれ違ったお遍路さん 11人 宿屋 松屋旅館 泊まりのお遍路 1人 野球場の横を行く遍路道を登り、見覚えのある山の道を行く。やがて、国道56号に出た。 大洲市に入る。 9時半、十夜ヶ橋着。 橋の下に降りると、おばあさんが、お経を上げている。暫く、終わるのを待つ。終わる途端に、どこから来たかと尋ねられた。 大師堂に寄っても、この橋の下に降りてくる人は少ない。良く降りてきたと褒めてくれた。 杖を見て怒られた。杖は大師さま、大事に扱え。このささくれの杖は、足が悪いか、歩き方が悪い。体を見てやると言われ、肩から足まで、揉んで調べてくれた。何も言わなかった。 足は歩きに慣れ順調だった。多分、張りがあり、いい足をしていたらしい。靴は脱げとは言わなかった。 先回は、杖にすがって歩いたが、今回は素直に衝いて歩いてきた。ただ、杖は、割に強く衝いて歩いてきた。これから、杖は持ってバランスを取るように使おう。 おばあさんは、大病をして1ヶ月入院したが、この大師様に助けられ、1日で歩けるようになり、このように元気になった。 それ以来、お寺さんの便所、この橋の下の掃除は、毎日きちんとやっている。今日も掃除が済んだ所だった、と言うとそのまま去っていった。 十夜ヶ橋大師堂、お参りして、記帳して貰う。大師堂を写真に納めることを忘れた。 大洲駅で19日、一旦帰宅する、高知駅からの夜行バスの切符を買う。 肱川橋を渡り、左折。遍路道が良く判った。嵩富川に出て、右岸に渡り、上流へ。金山橋で、56号線へ。鳥坂峠越えは、先回は山越えしたが、初めての国道トンネルを行く。 宇和町加茂で旧道に入り、右に町を見下ろして歩く。良く覚えている道だ。
第18日目 2002/11/13 (水) 経路 松屋旅館 明石寺 佛木寺 龍光寺 龍光院 BH掬水 歩き距離 41千歩 28.7km 地図上距離 27.5km 出発 7時 到着 15時半 曇り後晴れ すれ違ったお遍路さん 7人 宿屋 BH掬水 泊まりのお遍路 1人 明石寺への遍路道を登る。 7時半、43番明石寺お参り。見覚えのある下る遍路道には、石仏が幾つかあった。県道まで、迷わずに出ることが出来た。 歯長橋を渡り、山の遍路道に入るが、どの谷か判らない。遍路案内板を探しても見つからない。 少し戻り、仕事中の地元の人に教えを請う。後ろ姿を見ていてくれて、間違いそうになると違うと大きな声で言ってくれる。山に入り、姿が見えなくなるまで、道を教えてくれた。時間を掛けても地元の人に聞く事。 正解の道には、札があったが、順回りならば、余り気に掛けない場所のためか、少なかった。 10時、峠の見送り大師。先回は、アヤメが咲いていたので、春だったなと思う。 峠を下り、地図の遍路道と異なる川沿いの道を行く。案内板はあった。 11時、42番佛木寺到着。この門前で、何か買ったことを思い出したが、何だったか思い出せない。いつも通りのお参りをする。 龍光寺への細い遍路道は、注意していたこともあり、直ぐに判明。 12時半、41番龍光寺お参り。 先回、お世話になった宿の前を通り、遍路道を行く。田んぼに出た。先回、ここで、6歳くらいの女の子が母親を捜している所に出会して、田んぼで見晴らしが効いたが、一緒に探してやったことを思い出す。もう10歳になっているはず。かわいい子だった。務田(むでん)と言う地名もその時覚えた。 宇和島に向かう。 15時、龍光院お参り。 高台にあるお寺さんで、境内に、芭蕉「父母の志し里に恋し雉子の声」、小泉英「芭蕉忌や母は宇和島の人の由」の碑があった。
第19日目 2002/11/14 (木) 経路 BH掬水 三好旅館 歩き距離 27千歩 18.9km 地図上距離 14.1km 出発 8時 到着 13時半 曇り すれ違ったお遍路さん 3人 宿屋 三好旅館 泊まりのお遍路 6人 宿泊場所の関係上、今日は、津島町に泊まる。 朝早いため、人は少ないが、すでにお城は開門していた。宇和島城の天守閣に登り、宇和島の町を見る。静かな落ち着いた町。 町としては、明石寺のある宇和の方が古いようであるが、なぜ、お城が宇和島か不勉強で判らないが、城下町の宇和島の方が大きい。 13世紀ころから、宇和島に城があったが、今のお城は藤堂高虎が建てたとのこと。その後、伊達政宗の子が入り、明治まで居着いた。昭和24年、伊達家から市が寄付を受け、市の管理となり、37年、解体修理したとのこと。形の良いお城だ。 伊達博物館も寄る。秀吉の肖像画は見られなかった。 今日も、国道56号を行く。松尾峠は、1.7kmのトンネルを通った。歩道があり、排気もされていて、安心して通過できた。今日は迷う箇所は無く、国道一筋だった。 13時半、早かったが、宿は部屋に通してくれた。
第20日目 2002/11/15 (金) 経路 三好旅館 観自在寺 松の屋旅館 歩き距離 43千歩 30.1km 地図上距離 25.6km 出発 7時 到着 15時 曇り すれ違ったお遍路さん 3人 宿屋 松の屋旅館 泊まりのお遍路 1人 津島町は、峠を越えて町に入り、峠を越えて出て行くので、山の中の町と思っていたが、改めてよく見ると川面も静かで、カモメが居るしで、海の町と知る。遍路地図だけでは、想像も付かない。 今日も1日、国道56号とのお付き合い。暫く、覚えのある国道沿いの自転車道を行く。 大門で、遍路道と別れ、歩道のない嵐山トンネルを通り、海沿いに出た。初めての道である。 10時半、柏のふれあいトンネル。車道の際に歩行者専用のトンネルがあった。通学道路らしいく、自転車に乗った中学生が、良く響く大きな声で挨拶して通過して行く。こんなのに出会うと、嬉しくなる。 トンネルを越えると、柏の集落で、山越えの遍路道の分岐点に出た。先回、腹を決めて3時間の山越えにかかり、おばあさんからみかんを貰った。懐かしい場所。 14時、40番観自在寺お参り。 久しぶりに、境内で石仏を見た。
第21日目 2002/11/16 (土) 経路 松の屋旅館 延光寺 へんくつ屋 歩き距離 44千歩 30.8km 地図上距離 27.8km 出発 7時 到着 13時半 曇り後晴れ すれ違ったお遍路さん 5人 宿屋 へんくつ屋 泊まりのお遍路 1人 今日も国道56号。宿を出て、直ぐに56号線に入り、根気よく歩く。 一本松の集落で、56号の旧道に入り、町の中を歩いた。遍路道との交差点にはお店があり、先回、ここで昼用のパンを買い、山の中の農具置き場で雨を避け立ったまま、食事したことを思い出す。 純友の城の松尾峠を雨の中を越えたが、城跡に行けなかった。今回もパス。次は必ず、城跡を見ることにしようと思う。 高知県宿毛に入る。 宿毛の町に入る手前、与市明(よいちみょう)トンネルを抜けた所で、旧道と、新しいバイパスの分岐点があった。右のバイパスを取ったが、結果は左旧道が遍路地図の遍路道だった。たいした間違いでなかったが、少し遠回りをした。 宿毛からは、かって通った道で、良く覚えていた。 先回は、月山神社回りで、海を見て歩いたが、しまなみ海道開通の初日に当るのを知らずに、宿が取れず一般の方にお世話になり、漸く宿毛にたどり着いた。やれやれと思い、昼食に、うどんを食べた。また、知り合いになった長野のお坊さん夫婦と途中のコンビニで出会い、宿でひどい目にあった事を話した事などを思い浮かべた。懐かしい、良い経験だった。 13時、39番延光寺お参り。 石の亀と紅葉の庭。赤亀山延光寺に関係ある様子。また、樹齢400年 堂々たるたたずまいの伊吹があった。 早いが、宿に行き、部屋に入れて貰った。 夕食時、おかみさんから、金色のお札をいただく。山口県の神原さんが、良かったら、お遍路さんに渡してと置いていった物とのこと。裏に住所氏名、平成14年10月吉日と記入してあった。 金色納札は、巡回50回以上の人が使う物とのこと。
第22日目 2002/11/17 (日) 経路 へんくつ屋 民宿久百々 歩き距離 50千歩 35km 地図上距離 33.7km 出発 6時半 到着 14時半 曇り すれ違ったお遍路さん 5人 宿屋 民宿久百々 泊まりのお遍路 5人 船ヶ峠経由で、足摺岬へ。この道も初めてだ。国道56号から右折れの道は、すぐに判った。2kmほど旧道を行ったが、後は、車道の県道。 10時半、三原村久繁の地に、平家落人、平久繁の墓があった。 平久繁は安徳天皇と共に、下の加江港からこの地に入ったが天皇は病没し、平家再興もならず自分達は土屋と称し百姓になった。地名に名などが他にも残っている。との説明文があった。 平久繁と言う人がいたかどうか、不勉強で知りませんが、現に地名が残っている事は、平氏かどうかは別にして有力者として実存したことは間違いないと思う。 土地の名は、簡単には、変わりません。変わるのは、人が変えるからです。 落ち着いた秋の遍路道があった。所々に集落があるが、人影は見えない。いい気分で歩いてきたが、ここにも生活している人達が住んで居るんだ。 見覚えのある、下の加江を通り、国道321号を南下。 今日は、下りが多い事もあるが、余り足を止めるものがなかったので、良く、早く歩いた。
第23日目 2002/11/17 (日) 経路 民宿久百々 金剛福寺 民宿旅路 歩き距離 57千歩 39.9km 地図上距離 38.2km 出発 6時半 到着 15時半 曇り後晴れ すれ違ったお遍路さん 5人 宿屋 民宿旅路 泊まりのお遍路 3人 7時半、今夜世話になる以布利の宿に荷物を預け、軽装で金剛福寺へ向かう。昨夜のお客が先ほど出発したので、追いつけるかもしれないとの事。それは無理だろうと思ったが、じゃあ、急いで歩いてみようと言って出発。 ここから、昔からの海岸沿い、波打ち際の遍路道を行く。先回、1回通ったが、今回、迷わずに歩くことが出来た。 途中で、宿のおかみさんに会う。今夜、家へ泊まる人だね、1人でよく、この遍路道を歩いてきた、と褒められた。 先回、私を案内して、この道を行ったのも、このおかみさん。おかみさんは私を覚えていないはずだ。 じきに、私と同年配のお遍路さんに追いつく。私も歩きが早くなったかなと思う。今回、初めての、話をしながら歩き。久しぶりに良く話をした。 愛知県春日井市の勤め人(名前を失念、ごめんなさい)。帰ったら、会社を辞めると言っていた。詳しくは聞かなかった。 歩きのスピードが異なるので、すぐ、バラバラになる。また、一緒になる、の繰り返しが続いた。 車は、山に有料道路が出来、それを通って足摺岬に行くらしく、この遍路道は、余り車は通らない。 窪津の歩き遍路道も前のままだ。 山の上に、風力発電の風車があったはずと思ったが、無かった。室戸岬と間違えたかな。 11時過ぎ、38番金剛福寺お参り。 句碑 渡海僧おもふ卯浪の沖を見る (高木晴子)。観音様の理想の土地(補陀 洛)がある南の海へ渡海する場所だったとの事。
灯台と海が見える、先回と同じ場所で、お接待のぶすびを食う。結局、ここが落ち着く場所だった。 15時半、宿着。40km、9時間で歩いた。リュックがない分、少し早かったかな。 宿のおとうさんと春日井の人の心配を始めた時、到着。16時だった。今夜の宿まで、送ろうと言ったが、歩くとの事。後1時間の歩き。荷物だけ、おとうさんのオートバイが運んだ。 魚料理がうまかった。
第24日目 2002/11/18 (月) 経路 民宿旅路 土佐くろしお鉄道中村駅 (一時帰宅22日戻る予定) 歩き距離 50千歩 35km 地図上距離 29.7km 出発 6時半 到着 13時 曇り後晴れ すれ違ったお遍路さん 3人 宿屋 民宿旅路 泊まりのお遍路 3人 中村駅へ国道321号を行く。昨日の春日井の人が少し心配になり、泊まった宿へ寄る。丁度、おかみさんが外に出ていたので、様子を聞くと、みんなと一緒に、39番に向かって出かけたとのこと。 私が、昨日、歩きを煽った所があったので、一安心。 下の加江で右に曲がる。覚えのある道、遍路宿があった。 伊豆田トンネルを越え、津蔵渕付近の公衆便所のある公民館(だったと思う)の軒を借り、お接待の結びを食う。先回もこの場所で休憩した。知っている場所が安心の場所らしい。初めてのお遍路さんは、さぞ、不安を抱えて歩いているのだろうと思う。 13時、中村駅着。 普通に乗り、窪川乗り換え、高知に向かった。20時過ぎの夜行バスに乗った。
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