a 第1日目 2008/10/03 (金) 経路 自宅−名古屋駅−徳島駅 歩き距離 千歩 km 地図上距離 km 出発 21時 到着 4日5時 晴れ すれ違ったお遍路さん 人 宿屋 深夜高速バス 泊まりのお遍路 2人
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23時発の高速バス、オリーブ松山1号に乗る。徳島駅経由松山行きである。 満員だ。遍路が私と他に一人。 寝られないと思いながら、いつの間にか寝てしまい、5時に徳島駅に到着。
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5時48分の高松行き
のJRに乗り、6時10分に池谷
(いけのたに)駅に到着。少し明るくなってきた。 これから、長い歩きの旅が始まる。 |
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b 第2日目 2008/10/04 (土) 経路 池谷駅−番外・種蒔大師−番外・十輪寺−1番・霊山寺−2番・極楽寺−3番・金泉寺−4番・大日寺−番外・五百羅漢−5番・地蔵寺−民宿森本屋 歩き距離 32.6千歩 21.2km 地図上距離 16.8km 出発 5時半 到着 15時 曇り すれ違ったお遍路さん 人 宿屋 板野 民宿森本屋 泊まりのお遍路 2人
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6:30 東林院種蒔
(たねまき)大師お参り。
弘法大師が、当地において農業奨励のために鍬を持ち種を撒き、この地を離れる際に像を刻み残したことから「種蒔大師」という。 |
6:50 阿波神社お参り。右は神門。 土御門天皇を祭っている。 |
6:50 土御門天皇の火葬塚お参り。 土御門天皇は、鎌倉時代の後鳥羽上皇の皇子で、幼少時に天皇となった。承久三年1221年)、後鳥羽上皇が反幕の兵を挙げた。「承久の変」 だ。 結果は、幕府が勝ち、父後鳥羽が隠岐、弟順徳が佐渡に流刑となった。 後鳥羽上皇が挙兵の意志を固めたときに、弟順徳天皇は討幕に積極的であったが、土御門上皇は反対し参加しかった。。 土御門上皇は、自分だけが京都にいられない、止めれなかったのは自分の責任であるとして、自ら幕府に申し出て、土佐に配流されることをになったと いう。 後に、阿波に移り、亡くなった。、その地に、上皇の火葬塚、阿波神社がある。 |
7:30 十輪寺(じゅうりんじ)お参り。 |
7:50 第1番霊山寺(りょうぜんじ)お参り。 今回のお参りスタイルは、本堂、大師堂にて、賽銭、お札納めして、本堂では、般若心経をあげることにした。 杖、納経帳を買う。 霊山寺は、2,3割高いと、後で聞いた。そういえば、近くにも、遍路用品の店があった。 |
8:30 第2番極楽寺(ごくらくじ)お参り。 |
極楽寺境内に、長命杉、句碑。 長命杉 樹齢1100年。 弥陀の掌にすがりて登ちし蝶の昼 滝佳杖(たき・かじょう)
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9:10 稲を刈り、三角帽子状に、稲穂が並んでいた。昔ながらの懐かしい、この風景を、暫し 眺めた。 |
9;30 田んぼの畔の遍路道。 遍路は、同じ方向に、ほぼ同じ速度で歩くので、歩く途中での出会いは少ない。5分の差は、500mの距離の差になる。 また、自分のペースで歩かないと、疲れてしまう。従って、1人での孤独な歩きとなる。 歩きの速い人、休む人とは、一緒になる時があるが、挨拶だけである。宿で一緒になれば、話は、その時だ。 カップルが出来上がることがある。よっぽど、相性が良く、楽に、一緒に歩けるのが条件と思える。男は、誰が見ても、老人と思える人。女の方が若いので、合わせるのは、女と思う。結願まで、私の歩きに合わせる、女性は現れなかった。残念と思うか、やれやれと思うか、判断はしかねた。 |
9:40 第3番金泉寺(こんせんじ)お参り。 |
弁慶の力石。 義経が、徳島に上陸し、陸路、屋島に進軍した時、この寺に戦勝祈願したそうだ。弁慶がこの石を持ち上げたという。 香川県長尾町にもあった。 |
10:20 岡上神社お参り。 岡の宮の大クス。樹齢650年。 |
10:30 導引大師 宝国寺(ほうこくじ)お参り。 10:30 振袖(ふりそで)地蔵お参り。 |
10:40 大日寺への遍路道。 田んぼと山沿いの道。 |
遍路のお墓。 享保、寛政の年号が読める。18世紀始めと、終わり頃の年号。道路整備などで、集められ物。所所にあるが、字の読めない物が多い。 私も、白衣を着て、卒塔婆代わりの杖を持ち、歩いている。 何時死んでも良いというスタイルだ。 |
10:50 蓮花寺(れんげじ)お参り。 11:00 愛染院(あいぜんいん)お参り。 |
11:00 大日寺への遍路道。田んぼと山沿いの道。 初めての坂道。標高75m。息が切れない程度のスピードで登る。テンポは落ちないので、歩幅が縮まるようだ。 今回、これを徹底した。連れのお遍路さんが出来ても、先に行って貰うよう頼んだ。 |
12:00 第4番大日寺(だいにちじ)お参り。標高75m。 相変わらず、お寺には、団体さんが多い。おしゃべりが多く、うるさいのが気になる。お堂の真正面でのお経は少なくなり、個人の遍路のお参りはし易くなった。 もう1つ、納経帳を頼む時、要領の良い、団体さんの係が、個人のもたもたしている遍路を追い抜いて前に入ってしまう。お寺さんも、承知して見えて、団体さんの間に入れて、個人の遍路の記帳してくれる。 |
13:10 第5番地蔵寺(じぞうじ)お参り。 |
12:50 地蔵寺の釈迦堂、弥勒堂、大師堂をつなぐ回廊に五百羅漢。 羅漢とは、仏陀の教えを正しく守る修行僧のことで、まだ菩薩まで達していない人々のことです。
五百羅漢のなかには必ず自分の近しき亡き人に似た人が居るという。 |
五百羅漢。 |
地蔵寺の大銀杏。樹齢800年。 |
地蔵寺境内に句碑。 百薬に優る遍路に出でにけり 鵜飼政一。 |
15:00 今日の宿屋は、地蔵寺の際の民宿森本屋。2度目の宿泊。 13時半は、早かったので、宿の主は留守。戸は開いていたので、上がり込んでも良いのだが、それは出来なかった。宿の主の戻りは、15時だった。 宿の予約は、前日までに行うことにした。1軒しかない宿、公共の宿、などは、4,5日前までに予約しようと、決めた。今回の遍路は、ほぼ順調に宿は決めることが出来た。 |
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c 第3日目 2008/10/05 (日) 経路 民宿森本屋−別格1番・大山寺−6番・安楽寺−7番・十楽寺−十楽寺宿坊 歩き距離 26千歩 16.9km 地図上距離 15.7km 出発 8時 到着 15時 雨 すれ違ったお遍路さん 人 宿屋 土成 十楽寺宿坊 泊まりのお遍路 12人
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8:00 宿出発。雨。 |
8:30 神宅(かんやけ)の大山寺(たいさんじ)分岐点。 この角に祠あり。大山寺の祠。別格に行かない遍路は、ここでお参りするのだそうだ。 道の確認をしていたら、角の家の人が出てきて、説明してくれた。大山寺は出かける人は少ないが、頑張れとケツを叩かれた。 お礼を言ってスタート。雨は止みそうにない。 |
9:00 高速道路を越えた所で、山道へ。標高105m。 別格の遍路道は、遍路道の表示が少ない。 |
9:20 普通車が漸く通れる自動車道に
沿って、遍路道が真っ直ぐに付いている。今日、最初に歩く人、蜘蛛の巣に悩まされた。 雨に濡れて、よく滑る。帰りは、車道を降りよう。 |
10:20 大山寺の大杉に出会う。樹高28m。樹齢不明。 縁結びを祈願して、この仁王門の傍に植えられたという。山火事、台風に負けずに生きてきた。 仁王門は、大分痛んでいた。 |
10:40 長い階段と山門。 |
10:40 別格1番大山寺(たいさんじ)、本堂と大師堂お参り。標高450m。 開運招福の寺、男女の縁結びの寺という。 帰りは、車道を、恐る恐る、ゆっくり降りた。ひっくり返ることはなかった。 雨は、ますますひどい。 |
12:00 この写真、何のために撮ったか判らない。石仏、無縁仏と、お地蔵さん。 平地へ降りてから、道を間違えた。少し、遠回りした。 13:00 ハッピー食堂にて、ラーメン。雨と汗で、びしょ濡れ。店主に断って、椅子に腰掛けた。熱いラーメンがうまかった。 |
13:30 第6番安楽寺(あんらくじ)お参り。 ここの宿坊は、500人泊まれるという。 本堂は修理中。 多宝塔あり。 |
14:40 第7番十楽寺(じゅうらくじ)お参り。 |
15:00 十楽寺宿坊泊。 今日の宿はここ。建てたばかりで、都会のビジネスホテル並み。料金は高かった。 |
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d 第4日目 2008/10/06 (月) 経路 十楽寺宿坊−8番・熊谷寺−9番・法輪寺−番外・小豆洗大師堂−10番・切幡寺−11番・藤井寺−旅館吉野 歩き距離 34.9千歩 22.7km 地図上距離 20.2km 出発 7時半 到着 15時 晴れ すれ違ったお遍路さん 人 宿屋 鴨島 旅館吉野 泊まりのお遍路 12人
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7:30 宿出発。晴れ。歩きは快適。 |
8:40 熊谷寺仁王門。 1687年建立。 |
第8番熊谷寺(くまだにじ)お参り。標高120m。 |
9:00 熊谷寺板碑(いたひ)。 厚みの薄い石碑。1339年、父母の供養のため建てたと、説明あり。 |
9:30 第9番法輪寺(ほうりんじ)お参り。 1998年お参りした時の、美女との出会いの寺である。寺も、美女の座っていた椅子もそのままだ。門前の店もそのままだ。納経所が、新しい場所に建っていた。 しかし、写真撮影を忘れた。このお寺さんは、毎回、変わったことがある。 |
10:10 小豆洗(あずきあらい)大師お参り。 |
10:30 秋月城趾。室町頃の城。 戦国時代に滅ぼされたという。 |
11:00 第10番切幡寺(きりはたじ)お参り。標高150m。 登りでのある坂と、333段の階段を登る。 今日、10人ぐらいのグループが出来上がっていた。ほとんどが、登り口の店にリュックをおいてお参り。 私を含めた2,3人が背負ってお参り。その店で昼食となる。リュックは背負ってお参りすべきかどうか話題となる。 |
国重要文化財、切幡寺大塔。 徳川秀忠が建立。大阪住吉大社の神宮寺より移築されたものという。 |
切幡寺の、はたきり観音。はさみと布を持っている。 平成9年歌会始 御題「姿」の歌 この寺の由来を・・す御仏ははたきり観音姿うるわし 山主 智叡
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「はたきり観音」の由来。 弘法大師がこの地に巡って来ると、ある貧しい家に1人の乙女がはたを織っていた。 大師はその家に立ち寄って「今日は7日の結願の日にあたるが、身に付けているものが汚れているので布を頂 きたい」と頼むと、娘は気持よく今まで織っていた布を惜しげもな く鋏で切って大師に差出した。 大師は娘が「父母の菩提を弔うために観音様がぜひほしい」と いうのを間いて、その家に留まって千手観音像を刻みました。 そして娘を得度させてこの地にお堂を建て、観音様を安置しまし た。 やがて娘は即身成仏して観音様の化身となったという。 |
13:00 吉野川左岸寄りの橋。川の中の橋。 |
13:30
吉野川右岸寄りの橋。 共に、出水時は水の中に沈む構造だ。 グループの1人の若い者が、マメで苦労していたが、地元のボランティアが、治療してくれた。 みんなでわいわいと励ました。吉野川右岸の遍路小屋(バス停だったかな?)にて。 |
14:40 第11番藤井寺(ふじいでら)お参り。 臨済宗。標高40m。 |
本堂。 新築の大師堂。
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藤棚。 |
15:00 宿到着。到着は、2,3人目。洗濯風呂。 旅館吉野に泊まる。同宿12人。 18時夕食。明日の難所の焼山寺について、食事しながらの話が弾む。19時寝る。 同宿者 東京 女2人連れ 田中さん。東京 女 田中のおばちゃま。滋賀 男 おじさん。 区切り打ちの人達が多い。薬王寺まで、時々会うことになる。 東京 女 田中のおばちゃま。若いのに、おばちゃまでいいのかな。紹介して貰った、久万高原の桃李庵に泊まった。 川崎 男 堀江さん。足摺岬まで、時々会う。愛媛 第45番岩屋寺まで消息把握。 石川 女 おばさん。高知 第36番青龍寺まで、時々会うが、その後、接触なし。
遍路宿について 宿は、宿坊、遍路宿(民宿、旅館)、旅館(料亭)、ホテル、ビジネスホテル、公共の宿がある。 今回、2,3の宿で、相部屋の申し出があったが、相部屋は、申込時から承知していた、道後の「道後あい」のみだった。 たくさん止める宿もあるようだが、多くは、家族のみで、多数の人数は、面倒見切れないようだ。また、相部屋はしないという宿もあった。 すべての宿に、洗濯機は備えてあった。乾燥機は、6割程度あり。ほとんど、有料で、200〜500円。 風呂は、「道後あい」を除いてすべてあり。「道後あい」の風呂は、道後温泉本館の入場券。 洗濯、風呂の順番は、宿への到着順。 食事は、夕食、朝食とも、食堂。2,3の旅館では、部屋のところあり。 夕食は、18時頃。朝は、5時半〜7時、6時半が多い。8時もあり。昼食は、ほとんど、作って貰えない。 寝間着は、ほとんど浴衣。有料の所、あり。 歯ブラシ、風呂用タオル、あり。カミソリ、櫛、ない所がほとんどだが、申し出ればあるようだ。
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e 第5日目 2008/10/07 (火) 経路 旅館吉野−番外・長戸庵−番外・柳水庵−番外・一本杉庵−12番・焼山寺−番外・杖杉庵−桜屋旅館 歩き距離 35.5千歩 23.1km 地図上距離 19.7km 出発 6時 到着 16時 曇り すれ違ったお遍路さん 人 宿屋 寄井 桜屋旅館 泊まりのお遍路 4人
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6:00 いよいよ、遍路1番の難所に挑戦。早出する。早い人5時間、普通6時間、遅い8時間という。 藤井寺の境内に、登り口がある。登るに従い、集団がばらばらになる。 |
7:00 端山休憩所 標高225m。 7:30 焼山寺道と刻んだ石碑。自動車道もなく、石切場もないので、人力で運んだと思う。 |
8:10 長戸庵(ちょうどあん)お参り。 標高440m。 |
9:00 遍路道分岐点 標高540m。 |
9:20 柳水庵(りゅうすいあん)お参り。 標高500m。 数年前まで、宿泊出来たのに、廃業したという。近くに県道あり。 谷間を登る峠越えの県道 245号を横断。標高585m。 |
10:30 また、登り道。 |
11:00 浄蓮庵(一本杉庵)(じょうれんあん いっぽんすぎあん)お参り。標高745m。 大師像と一本杉。 |
12:00 遍路道。左右内(そうち)谷川横断。標高400m。 数軒の集落。道を間違いやすい場所だ。ぜひ、地元の人に確認が必要。 谷を2つ越えた。あと、700mまで、300m登るだけだ。 |
13:30 第12番焼山寺(しょうさんじ)お参り。標高700m。 所要時間7時間半。 宿の作ってくれた、昼食(おにぎり2つ、おかず少々)を立ったまま、食べる。座ると寒いので。
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焼山寺境内の遍路道標。
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14:30 焼山寺から杖杉庵への遍路道。 |
14:50 杖杉(じょうさん)庵 標高440m。 衛門三郎霊跡。衛門三郎と弘法大師のブロンズ像。 この場所が杖杉庵と呼ばれようになった縁起を記した説明板あり。 |
杖杉庵説明板 伊予の国に衛門三郎という金持ちの長者がいた。彼は強欲非道な鬼畜のような男で、貧しい者を虐げ、召使を牛馬の如く、こき使って栄華の夢に酔いしれていた。 雪模様の寒いある日、その門前に一人の旅僧が訪れて、一椀の食物を乞うた。衛門三郎は下僕に命じてその旅僧を追い払ったが、その後も何度も訪れるので、衛門三郎は怒って旅僧の捧げる鉄鉢を大地に叩きつけた。 すると、鉄鉢は8つの花弁の如く四辺にとび散 った。衛門三郎は唖然と息を呑み棒立ちとなった。ふと我に返った時には、旅僧は煙の如く消え失せたという。 長者には8人の子供があったが、その翌日から毎日子供が亡くなり8日の間に8人の子供を失った。鬼神も恐れぬ衛門三郎も悲嘆にくれ、初めて自分が犯した悪業の報いであることを知った 。 そして、我が無礼を働いた旅僧は、霊場を開くために四国を遍歴している弘法大師であると知った。無礼を詫び なければ相済まぬと。発心して、全財産を黄金に変えて、四国八十八ケ所の霊場を尋ねて大師を追う遍路の旅をつづけた。 しかし、20回も霊場を廻り続けたが大師に会うことができず、21回目は逆の途を取って此の所までたどりついた。疲れきった体を木陰に寄せて、背負った黄金の袋を下して見ると、黄金は一塊の石となっていた。 今や一歩も立上がる気力もまく倒れていると、そこへ大師が現れた。衛門三郎は過ぎし日に鉄鉢を打ち砕いたことを詫びて、にっこりと笑みを残して、事切れたという。 その日は天長8(831)年10月20日と伝えられる。大師は衛門三郎のなきがらを埋め彼の形見の遍路の杉の杖を建て墓標とされた。其の杖より葉を生し大杉となった。こうした故事に因んでこの庵は杖杉庵と呼ばれるようになり、今は弘法大師の遺跡として残っている 。 |
15 :30 鍋岩(なべいわ)への遍路道。標高240m。 |
玉ヶ峠を経て鏡大師への分岐点。 今日は、真っ直ぐ、寄井(よりい)へ向かう。 |
16:00 寄井の宿到着。 |
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f 第6日目 2008/10/08 (水) 経路 桜屋旅館−阿波国一宮神社−13番・大日寺−名西旅館 歩き距離 33千歩 21.5km 地図上距離 18.3km 出発 6時半 到着 13時 晴れ すれ違ったお遍路さん 人 宿屋 徳島一宮 名西旅館 泊まりのお遍路 15人
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6:30 宿出発。 |
宿のある、神山町寄井の町。 別格童学寺(どうがくじ)に寄り、建治寺(こんちじ)宿坊に泊まる予定を立てたが、建治寺に断られた。 焼山寺の疲れもあるので、今日は、別格童学寺のお参りは明日にして、第13番大日寺へ向かうことにした。 |
9:30 ゆっくりと歩いたが、県道207号の大桜トンネルを通過。
標高240m。
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11:40 阿波国一宮 一宮神社お参り。 |
11:50 第13番大日寺(だいにちじ)お参り。標高30m。 宿で一緒になった、4,5人と一緒になった。みんな、先に行くとのこと。 ここに泊まるのは、私だけ。 |
大日寺の隅で、年寄りの遍路が、携帯で、怒っている。相手が、ちゃんと応対しないらしい。 遍路の北海道のおばちゃまが、変わって事情を聞くと、タクシー屋の留守番で、年寄りらしく、いうことが通じないらしい。怒った遍路には、夕方、電話しろと、上手に説得していた。感心して見ていた。 この寺で別れた遍路には、この後、誰とも会うことはなかった。私が、別格童学寺、別格慈眼寺に寄ったこと、阿波最後の薬王寺が、6日後位に近づいていること、などのためのようだ。 一宮郵便局にて、現金を降ろした。4日分の現金である。 1軒の食堂は休み、コンビニなし。今日は、昼食なし。あまり、腹は空かなかった。 |
13:00 今日の宿に入る。嫌みも言わずに部屋に通してくれた。ありがたかった。 洗濯して、後、ゴロゴロしていた。 夕食時、東京の田中のおばちゃま他知っている数人に会った。16番観音寺まで行ってきたといっていた。 |
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g 第7日目 2008/10/09 (木) 経路 名西旅館−14番・常楽寺−14番奥の院・慈眼寺−15番・国分寺−16番・観音寺−観音寺童学寺間バス−別格2番・童学寺−17番・井戸寺− おんやど松本屋 歩き距離 24.5千歩 15.9km 地図上距離 13.5km 出発 7時半 到着 14時 晴れ すれ違ったお遍路さん 人 宿屋 国府 おんやど松本屋 泊まりのお遍路 3人
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7:30 宿出発。 |
大日寺から、川沿いの遍路道。 |
8:00 第14番常楽寺(じょうらくじ)お参り。 |
常楽寺境内に、無縁塔。 「まつり人のない霊さまをおがんであげて下さい 当山」の看板あり。お参りする。 |
8:40 慈眼寺(じげんじ)お参り。 岩船地蔵尊お参り。 |
六地蔵板碑。 薄い石の板に、六地蔵が線で彫ってある。下部に、二十数名の名があるという。鎌倉から戦国時代に、よく作られたという。 当時の人は、真面目にこのような碑を作ったのだ、と思う。 能楽も、戦国、乱世の時代の芸術。この碑と同じように、真面目に、助けを求め、能楽を仕上げていったのだと、改めて思う。 |
8:50 第15番国分寺(こくぶんじ)お参り。曹洞宗のお寺。 平安時代の阿波国分寺の跡地にあり。 |
9:20 第16番観音寺(かんおんじ)お参り。 昨日、お参り出来なかった、童学寺に向かう。国道192号に出た所で、地元のお母さんに会う。
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バスへ乗れと誘われて乗る。話をしたかったようだ。 警察前で降り、1kmほど歩く。 国道192号に平行してJR徳島線。 |
10:10 別格2番童学寺(どうがくじ)お参り。標高50m。 本堂他の写真撮影を忘れた。 帰りは、観音寺まで歩いて足跡は残した。 |
12:30 大御和(おおみわ)神社お参り。 大きな神社だ。一宮より大きい。大和の三輪神社の系統らしい。 |
13:10 第17番井戸寺(いどじ)お参り。 |
14:00 今日の宿、おんやど松本屋。民家を直して民宿にしたようだ。同宿3人。 2日間、短距離の歩きで、休息を取った。 これから、別格慈眼寺、鶴林寺、太龍寺の山のお寺がある。準備完了である。 足のマメは、完治。何の処置もせずに歩けるようになった。 |
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