16 赤坂宿 宮路山 宮路越え 枡井戸 本宿 藤川 愛知 20km 2005/01/03
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9時50分、名鉄赤坂駅から歩く。4人程、前を行く。目的は、同じようだ。声を掛けられないと話さない、悪いくせが現れ、話はしなかった。 最も、寄り道をしていたので、話する暇も持てなかった。 |
2000年の正月には、赤坂の美しい4姉妹と言われた、その内の2人のおばさまと電車内で会って話をし仲良くなって、赤坂の駅で降りた。 大橋屋で4人で食事すると言っていた。今年も元気でいるかしら。 |
舞台があった。 |
江戸時代になり、川の水をコントロールできるようになると、谷の道である東海道が出来て「宮路越え」は廃れた。 宮路山はこれより、20分程を要す。少し急な登り道となる。 |
葉は落ち、枝が白々と見えたが、近づき見れば、紅い新芽が枝の先から、我先に延びている。 |
人の植えた檜だが、真っ直ぐ上に延びている。10年ぐらいかな。 |
山頂の「宮路山聖跡」の碑は、持統上皇がこの辺りに来ている事を記念したもの。持統上皇は天武天皇の皇后だった。 真南の蒲郡は、太陽に向かい眩しく、田原の山々が霞んでいた。 阿仏尼の息子、為相の歌 外山なる花はさながら赤坂の名をあらわして咲くつつじ哉 |
途中、盗賊岩、腰掛け石、等が在ったようだ。案内看板は無かった。 この山は、入会林野であったらしく、「入会林野整備、公共林道開設記念碑があった。 |
聖徳太子が宮路越えの時、水を所望され、部下がこの泉を見つけ、この泉の水を飲んだ。その清く冷たい水に感動して太子自ら「小渡井枡井戸」(こどいのますいど)と名付けたと言う。
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ここは、53次の宿場ではない。 |
ここで、家康が勉強したりしたそうだ。 家康の先祖松平氏の墓地、三方が原、長篠の戦いの戦死者の墓などがある。 |
文政10年(1827年)の建築。 |
藤川宿の旧道は、国道1号線と平行に走る道のため、渋滞の車が入り込み、車だらけ。 すっかり嫌気がして、歩く気が失せてしまった。いや、本当は疲れてしまい、電車の音が耳に入ったので、名鉄の藤川駅に飛び込んだ。 |
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