比叡山 坂本 法然堂 蓮如堂 阿弥陀堂 無動寺参道 弁天堂 明王堂 紀貫之墓 坂本

12km           1999/11/07 

西行・一休など    低い山登り・峠越えへ

 

 

 満願を目指す遍路行きの足慣らしのため、出かける。大比叡に登る、大乗院を訪ねるのが目的。
 坂本ケーブルカー横の登山道から、根本中堂へ向かう。少し紅葉には早い感じ。紅葉が遅れているのだ。季節が良いので登山者が多い。
 法然上人得度御旧跡の法然堂お参り。留守番さんからお茶をいただく。坂本から歩いてきたかね。私は45分で登ると言われる。私は、2時間近く掛かった。差がありすぎるので、黙って肯いていた。

 大塔宮護良親王御旧跡の石碑を見つけた。護良親王は、後醍醐天皇の第3皇子、18歳で比叡山に登り仏門に入る。叡山の大塔にちなんで大塔宮を名乗る。20歳で、座主となる(1328年)。天皇の叡山支配の1つ。後醍醐天皇の建武の中興(1334年)の立役者だった。その後、1338年、鎌倉にて足利直義(尊氏の弟)に殺される。武勇の人だった。

 蓮如堂お参り。蓮如は17歳(1432年)東堂北谷のこの地に住み25歳まで修行した。冬は蚊帳をまとって寒さをしのいだそうだ。ある日、湖東の弥七と言う信者が、麦粉(ほつたいこ)と緑茶を持って来て差し出すと、「この頃、こんなご馳走を食べた事はない」と言ったそうだ。弥七は、後の金ヶ森の道西で蓮如の布教を助けた。今は、堂内に在山時代の象と、35歳で本願寺8世を継いだ時の象が安置してある。
 阿弥陀堂お参り。昭和になって創ったお堂だ。

 比叡山の中心宝塔として比叡山に建立された東塔は、信長に焼かれ、以来再建されなかったが、1980年400年ぶりに再建され、雄大な姿を老杉の間に現した。高さ30m、木造檜造り、重層多宝塔。 仏舎利、法華経、般若心経、千万遍の念仏名号等が納められ、胎蔵界大日如来のほか5仏を安置する。法華総持院東塔である。

 このお堂の横から、大比叡を目指し、150m位、山を登る。1等三角点を確認。標高848m。
hiei991107mudou.JPG (12947 バイト) 無動寺参道の石碑のある鳥居から、坂を下る。
 無動寺谷弁天堂お参り。無動寺谷明王堂は千日回峰の本拠となるお堂。お参り
 明王堂の下に、親鸞聖人御修行旧跡の石碑のあるお寺さん。お参り。これが大乗院と思われる。今まで、確かめる人に会えなかったが、次の時は、確認しよう。
 西行が晩年、比叡山に慈円を訪ね、無動寺に宿を取り、次の朝、無動寺の大乗院で、歌はこれで終わりと1首詠んだ。その時の様子を慈円は書き残しているそう だ。

 円位上人無動寺へのぼりて、大乗院のはなちでに湖を見やりて

    にほ照るや 凪ぎたる朝に 見わたせば 漕ぎゆく跡の 波だにもなし

 帰りなんとて朝の事にてほどもありしに、今は歌と申すことは思い絶えたれど、結句をばこれにてこそつかうまつるべかりけれとて詠みたりしかば、ただに過ぎがたくて和し侍りし。 

 事を成して、頼むことは頼んで、多分、夜も寝ないで中学生のように、慈円と話し合ったに違いない。

 歌も止める、消えて行く舟の跡に向かって行く西行の気持ち。あこがれる。せめて、どんな景色があったか確認したかった。無動寺谷の明王堂からも、法然堂からも、琵琶湖がよく見える所だった。

 西行は、次の年、如月16日に亡くなっている。その日に会わせたように。空海も、釈迦の亡くなった日に亡くなっているようです。そのように出来たら 素敵だ。

 帰りに、紀貫之の墓へ寄った。登りでがあった。

坂本に出るのに、JR石山駅で私鉄乗り換えが便利と知る。
 

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