15 徳川慶喜屋敷跡 石部屋安倍川餅 由井正雪墓跡 宇津の谷峠 つたの道 丁子屋とろろ汁 吐月峰柴屋寺 静岡 16km 2004/03/28
|
JR静岡駅は高等学校に通うために3年間通った駅である。勿論、その時の駅ではない。建て替えられているので、昔の面影はないが、懐かしい駅である。 |
浮月楼の玄関の際に「徳川慶喜公屋敷跡」の石碑があった。浮月楼のホームページがあるので見てやって下さい。 |
旧東海道に出て、安倍川の辺まで歩く事にした。自動車道を一本奥に入った道だ。車の少ない、静かな道を行く。 |
今日も東海道を歩く人達が、店に入ってくる。すっかり有名になっている。江戸時代も旅人は必ず寄ったと言う。 |
ここ、安倍川左岸からバスに乗って、「宇津ノ谷入り口」まで行く。安倍川を渡ると、手越(てごし)。江戸以前は、ここの方が繁盛していたようだ。平家物語、能「千手」の千手は、手越の長者の娘で、重罪人の平重衡の面倒を見る。 |
丸子と岡部の間の宿、宇津ノ谷の集落の道は、色つきの煉瓦で、道が綺麗になっていた。綺麗すぎる。 |
小田原征伐の時、秀吉が、この家で、馬の沓を取り替えた。時の主人は頓智の効く人で、4本の足の内、3本しか取り替えなかったので、秀吉になぜかと問われたそうな。「3脚分の沓は、道中安全をお祈りしたもの。残る1脚分で、戦のご勝利を祈るつもり」と答えたそうだ。又、裏の山を指して「あれなる山は?」と聞かれ「あれは勝ち山。その大木は勝ちの木」と答えたそうだ。 秀吉は、小田原征伐の帰り、又寄って、主人を褒め、自分の着ていた陣羽織を与えたそうだ。 その後、お羽織屋と言うようになり、家康を初め、諸大名も其の羽織を見たがり、訪問者の名簿も残っている。 みんなが触るので、傷が付き、経年による色彩の褪せもあり、最近、修理をして貰ったとのこと。継ぎ当てのある羽織だった。 |
つたの道を通り、丸子に戻る。降りてきた東海道を左に見て、右の林道を行く。山に入る道まで、林道は綺麗になり、公園となっていた。家族連れが何組も、昼食をはしゃいで取っていた。 |
古し世の跡もとどめず高ねまで 大路開けぬつたの細道 下田歌子 天翔る鳥も憩えなわが里の 蔦の細道いまさくら時 片山静枝 我がこころうつつともなし宇津の山 夢にも遠き都こふとて 阿仏尼 ひと夜ねしかやの松屋の跡もなし 夢かうつつか宇津の山こへ 兼好法師 袖にしも月かかれとは契り置かず 涙は知るや宇津の山越へ 鴨長明 都にもいまや衣をうつの山 夕霜はらふ蔦の下道 藤原定家 夢路にも馴しやとみるうつつには うつの山邊の蔦ふける庵 藤原俊成 |
伊勢物語の「わが入らむとする道はいと暗う細きに、蔦かえでは茂りもの心細く・・・」が「蔦の細道」の名の起こりだそうです。 |
丸子側の、1号線の宇津ノ谷トンネルの入り口に降りた。宇津ノ谷峠は、ここから西に向かうが、つたの道は、は南に上る。今その道を降りてきた所だ。 |
今川氏親の時代、連歌師宗長が京都銀閣寺の庭園をまねて造ったものと言う。月の名勝地となり、常に、多くの文人墨客の杖を引く地となった。 なお、宗長は島田の生まれである。島田駅前に宗長宅跡の石碑があった。 |
竹は京都嵯峨より宗長法師の移植せしものにてその時の句に
幾若葉はやしはしめの園の竹 山桜おもふ色添ふ霞かな 宗長 丸子富士 かぎりなきとしやは暮す不死の雪 宗長 永正九年二月山畑に宇治の茶の実をもち来って植うるとて 山しろの宇治のかほりに堪がたし 種をまきおく柴の山畑 宗長 の句があるとのことだが、石碑が有るのか無いのか判らなかった。詰めるのは、次の機会にしよう。 |
|
以 上 TOPへ戻る |