10 吉原 手児の呼坂 源太坂 浅間神社 水神社 浄瑠璃姫墓 義経硯水跡 静岡 25 km 2002/01/20
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吉原で下車。富士山が丸見え。この正月、4日目で初めての富士山。今日1日、見て歩くことが出来る。 小さな地方鉄道岳南鉄道に乗る。8時台3本、出たばかりで20分待つ。始発駅から終点まで、鉄道の職員は数人しかいなかった。車両は1両でゆっくりの運転。今日は日曜のためかおじさん、おばさんのお客30人ほどいたが、終点までは私1人。私は富士山を、終点江の尾(えのお)まで、ずっと見ていた。 沿線には、日産自動車、大昭和製紙など有名な会社の工場あり。 先週の続き、根方道を歩く。須津(すど)地区案内図がバス停の近くにあり、見てみると、旧道根方道がくねくね曲がって描かれていた。その道に沿って南下すると、岳南鉄道開通記念碑があり、 旧道らしい細い道が案内図どおりあった。はるか下の方に防風林が見える。 |
今泉4丁目の原田公園に「手児の呼坂(てごのよびさか)」の碑あり。緩やかな坂が続く所。万葉集5−3477「東路の手児の呼坂越えて去(い)なば我れ(あれ)は恋ひむな後は逢ひぬとも」がある。 久松先生によれば、「駿河風土記」にも出ており、険しい坂に対する緩やかな坂、女坂を言う。「真間の手児奈」にも共通する言葉である。「東へ行く道にある手児の呼坂を越えて、旅に行ってしまえば、恋しく思う。後で会えるとしても。(遠くへ行っても、目的がはっきりしていて帰ってくることが確実の旅だから)」 |
検索してみると、万葉集には、「手児」の字の入っている歌が14首ある。 十王子神社をお参り。 |
国久保の「今泉源太坂」は町名などには残って居ないようだ。源太坂病院があった。梶原源太景季と佐々木四郎高綱が名馬について口論した 所から言われるようになった。富士山の見える坂道だった。 富士川の源平合戦の源氏の陣はこの辺り。西に富士川、高台でよい場所だ。 |
三日市浅間神社をお参り。旧東海道に合流して、身延線を越えたところで、北西の道をとる。富士川に出た。この辺は鎌倉街道はあまりはっきりしていない。 |
水神社に出る。今の富士川橋の東岸で東海道の渡船場があった。 富士川を渡ると、岩淵である。今は富士川町である。 蒲原で、浄瑠璃姫の碑を探す。数人に尋ね、1時間ほどかかり、ようやく行き着く。25000分の1地図に無い立派な道が出来ており、地図を読み違えたためである。 |
「浄瑠璃姫の墓」と「吹き上げの6本松」の碑があった。このあたりの浜が吹き上げの浜だ。工場地帯と新興住宅地になっている。 浄瑠璃姫は義経伝説中の人物。三河国矢矧宿(愛知県岡崎市)の長者の女(薬師瑠璃光如来の申し子)。牛若丸奥州下りに情交を結んだと伝える。本論、岡崎にも浄瑠璃姫の碑がある。 義経硯水跡を尋ねる。狭い土地にこじんまりとおわした。 阿仏尼の「十六夜日記」に、清見潟を過ぎ、「程なく暮れて、そのわたりの海近き里にとどまりむ」「こよいは浪の上といふ所に宿りて、荒れたる音、左右に目も合わず」とあり、富士川西岸に泊った。浄瑠璃姫、硯水の事何もなし。次の日、富士川をわたり、15瀬を渡り、田子の浦に至る。すでに、北条氏の鎌倉 には海側の道があったと思われる。 新蒲原駅着。今日は、昼まで、富士山を見ることが出来た。12時過ぎると、あっという間に雲に覆われた。36千歩25km歩いた。 |
本日歩いた概要図
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