20 鎌倉古道 浜松城 伊場遺跡 比丘尼塚 舞阪脇本陣 静岡 28 km 2002/09/10
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阿仏尼は「こよいは引間(ひきま)の宿といふ所にとどまる。この所のおほかたの名は浜松とぞいひし」と書き、鎌倉時代の浜松は、引間、引馬と呼ばれていたようだ。 場所は、江戸の東海道浜松宿とは異なるようだ。 |
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三方原台地のすぐ下の場所であり、稲作り、漁などに都合の良い場所だったと思われる。稲は、川の氾濫地のよどみ、谷間などで作り、保管小屋なども建てられていた。鎌倉街道もこのあたり で台地を下り、舞阪へ向かったようだ。 |
この遺跡の発見は、地元の中学生が土器を見つけたのが発端だった。縄文時代から室町時代までの重なった遺跡とのこと。 若林、増楽、篠原、坪井を行く。東海道線の南の道を行く。砂地で、田はなく整理された畑である。大きな地震が何度もあったと思われるが、いろいろ被害を被ったような様子は見えなかった。 |
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舞阪の脇本陣が復元され、公開されていた。脇本陣の上段の間、湯殿、畳敷き御厠を見せて貰った。 浜名湖の橋3つを渡る。旧の橋を歩行者用に花壇、柵など設置して綺麗にしてあった。ここは鎌倉時代、地続きであった。 1498年の地震で、湖と海の間が切れて海と一つになった。応仁の乱は1467年だったので、この時はすでに群雄割拠の戦国時代。 JR新居町駅で電車に乗る。 |
[追記] 浜松市に問い合わせた所、資料を調べてその謂われを教えて貰いました。どうもありがとうございました。地元に言い伝えられているお話で、以下の通りです。 資料名 :わがまち 文化誌 浜風と街道 編集発行 :浜松市立 篠原公民館 「比丘尼塚」 篠原 馬郡町:現在も使われている、この地方の町名、 馬郡町の東のはずれに近所の人々に比丘尼塚と呼ばわれていた小さな森がありました。そこには、こんなお話が言い伝えられてきました。平安時代侍所の武者が、東国へ赴く国司の随行の一人として任地へ旅立って行きました。しばらくすると、文の便りもいつしか途絶え、その妻は心配と夫恋しさのあまり侍女を供に旅に出ました。馬郡まで来たところ、病にかかり帰らぬ人となってしまいました。主人思いの侍女は、髪をおろし比丘尼となって主人の冥福を祈り菩提をとむらっていました。そのうち、彼女も病をえて帰らぬ人となってしまいました。主人思いの彼女の心根をあわれに思い、みんなで供養をしたとのことです。昭和40年代の耕地整理により消滅してしまい、残念ながら、現在では目にすることはできません。 「山伏塚」 東馬郡:この地方の郡名 東馬郡に山伏塚と呼ばれていた祠がありました。全国で英雄達が群雄割拠していた戦国の世のことでありました。勧進と修行のため山伏の一行が全国行脚をしていました。その一行が、当地にさしかかりました。すると、その山伏一行の先達が、にわかに病にかかり帰らぬ人となりました。山伏達はなげき悲しみましたが、先達の志をつぎ街道の一隅に小さな祠を建てて手厚く供養して旅立っていきました。そしてその後、近所の住民は、山伏の死をあわれに思い月の十五日を命日と定め供養しておりました。いつしか大木が繁り人々は、山伏塚と呼ぶようになりました。 |
本日歩いた概要図
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