33 鎌倉古道 萩神社 笠縫宿 安楽寺 大塚古墳 円興寺 風越峠 府中   岐阜

24 km   2003/02/07

西行・一休など    鎌倉街道へ


 

 JR大垣駅から歩き始める。

 大垣駅から。1本東の古い道を北上。道際に「明治天皇御召替之碑」があった。地名は林町、鎌倉時代の開拓者、林何某の名前からの名との事。 美濃路が見えなくなってしまったが、この道も古い道。その近く、左に入った所に顕性寺あり。お参りする。

 なお、北上すると、日吉神社あり、お参り。

 萩神社お参り。昔、柳の大木があり、西行はこの柳の下で岐阜山を見て美濃冨士の歌を詠んだとの事。

 西行法師歌碑が大垣市立北中学校に在るようだ。前を通ったが、西行を忘れていたので、感心も示さなかった。 「ほのぼのと目路もかすみて青柳の枝にかかれる富士の白雪」

 ここから、西方向に向かう。北小、北中学の北の道から、八島町にはいる。八島八幡社お参り。

 宿地稲荷お参り。八島、宿地は鎌倉街道沿いの古い地名。

 車道、大垣赤坂線の横断ヶ所に小さな公園があり、笠縫の里の石碑があった。道の向こうは笠縫町。こちらは宿地町。鎌倉時代の笠縫宿。美濃の歌枕。

 十六夜日記の阿仏尼も”関よりかきくらしつる雨、しぐれに過ぎて降りくらせば、道もいとあしくて、心よりほかに、笠縫のうまやといふところにとどまる”

「旅人はみのうちはらふ夕ぐれの雨にやどかる笠縫の里」。旅,蓑、雨、宿は笠の縁語。十六夜日記は、ほんのメモ程度の記録を元に後で仕上げたらしい。良く読むとそのような事が判るとの事。

 この歌碑が子安神社にあった。

 受円寺お参り。弘仁6年(815年)伝教大師の創建だが、信長に焼かれ、この表門のみ残った。室町時代の物で、大垣では最古の建物との事。古いお寺さん。

 ここにも鎌倉街道の碑があり。

 近鉄養老線に沿って少し北上し西に横断。笠木の堤に出た。享禄3年(1530年)以前の揖斐川堤との事。隣に河間(がま)町があり、伏流水の自噴地の名との事。

 堤を北上して、自動車道に出て、西へ向かい、杭瀬川を渡った。享禄3年の大洪水で、支流となった杭瀬川が残った。源義朝が青墓で、朝長を失い、船で野間に逃れたその川である。水量豊かで、この赤坂まで船が通った。中山道赤坂宿には、港跡があった。

 赤坂新田、赤坂大門の古い道を通り、JRを横断。

 勝山の安楽寺お参り。勝山も壬申の乱の旧跡。大海人皇子が野上に行宮を移す前にここで、軍を整えた。関ヶ原の時は、家康が陣を張った所でもある。

 鎌倉街道は勝山の北周り、南回りがあったらしい。

 鎌倉末期には、この杭瀬川宿、青墓、野上と言う宿が廃れたが、なぜ廃れたのだろう、と疑問に思う。杭瀬川は赤坂に変わった。場所も今の赤坂に移動したようだ。

 大塚古墳は4世紀後半の大和朝廷と強く結びついた、この辺りの豪族の物との事。

 昼飯(ひるい)の妙来寺お参り。

 JRを越えると右に小高い丘がある。粉糠山古墳だ。4世紀末から5世紀初めの物との事。

 今は何もない田圃の平地だが、この辺りが、青墓の宿だった。粉糠山の粉糠は、青墓の遊女が捨てた粉糠が山となったので、粉糠山と言うようになった、との言い伝えある。ここから北の山間の谷に向かう。

 円興寺お参り。お寺の向かい、東の山は、昔、円興寺のあった場所で、礎石などが残っている。また、朝長のお墓も残っている。

 円興寺の南の谷に入り、風越峠へ向かう。方向としては南下。今は林道の道。この谷で、宋銭なども出ているとの事。

 途中で、地元の人に会う。胡散臭い奴と思われたらしく、いろいろ聞かれる。昔の街道を歩いているとの事で納得してくれる。2万5千分の1地図を持っていたのもよかったようだ。途中で、右へ曲がると山を登らずに楽に垂井へ出れれると教わる。

 お礼を言って別れる。松茸山の、字の薄くなった看板がいくつかあった。疑いの眼は、その為かもしれない。地元の人の忠告は守らず、頂上を目指す。標高は100m前後。

 ところが、頂上付近からは道は無くなり(間違えたのかもしれない)、薮の中を降り事になった。狩猟時期だったし、猪注意の看板、田畑の猪除けの囲いなどあったので、夢中で駆け下りた。誰とも会わず、谷の田圃に出た。

 JR鉄道を横切り南に出た。美濃国分寺の西に出た。国分寺が平地にあるのに、鎌倉街道は低いと言ってもこの峠を越えるのか判らなかった。谷間は、稲作の土地だったためかな、と思った。

 西の道をとる。平尾の願証寺お参り。真宗のお寺。平尾御坊と言われている。ここも信長に焼かれる。

 垂井府中で、歩きは打ち切りとした。

本日の歩いた概要図

 

 

 
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