13 鎌倉古道 国分寺 臨済寺 賎機山古墳 木枯らしの森 歓昌院峠越え 紫屋寺 駿河匠宿 丁子屋   静岡

18 km  2002/07/28

鎌倉街道へ


 

 静岡浅間神社に、観阿弥の碑があった。

「(亡父にて候ひし物は、)52と申し、5月19日に死去せしが、その月の4日、駿河の国浅間の御前にて法楽仕り、その日の申楽、ことに花やかにて、見物の上下、一同にほうびせしなり」

 これまで顧みられなかった「観阿弥最後の舞台」を想起し、「風姿花伝」の一節を刻み、観阿弥の巧徳を称えるものである。との説明があった。

 浅間神社より、東方500m、静岡高校の南に、駿河の国府跡に建っていると言われる国分寺をお参り。小さい神社だった。

 万葉集に、東国に赴く役人の「焼津辺(やきつへ)に吾が行きしかば駿河なる 阿倍の市道(いちじ)に逢いし児らはも(3−284)」の歌がある。なにやら楽しい感じがある。

 安倍川の流れに突き出た賎機山(しづはたやま)の麓に、古墳、神社、国府、往来の多い宿場があった。ここも、江戸以前は、平地は避けていた。万葉歌からも、賑わいが伝わってくる。

 徳川家康が修行したと言う臨済寺を尋ねる。50年ぶり。修行寺につき拝観拒絶の看板と遮断竹棒があった。綺麗な庭があったと思ったが、確かめようがない。

 帰り道で、80歳を過ぎたと思われるお婆さんと一緒になる。バス停まで行くとのこと。一緒に歩く。

 臨済寺の拝観謝絶の話をしたら、いきなり怒り出した。今の坊さんは、生意気だ。お寺は、個人の所有物と言うより、その地域の所有物だ。拝観させても当たり前だ。とのこと。

 ついでに、自分の娘のことに及び、親が病気しても、何も言って来ない、勿論見舞いにも来ない。60才近い教育者であるので、余計に腹が立つ、等々。元気なお婆さんだ。

 私も、拝観拒絶は、どうかと思った。

 勉強不足で、賎機山古墳の場所が定かでなかったが、浅間神社境内を歩いていて見つけた。突き出た山の先端にあった。今日は、石室内公開の特別日であった。10時からのため諦める。

 静岡市文化財資料館で出土遺物を見た。6世紀頃の豪族の墓らしい。鐙、鞍などがあり、形、模様など、大陸系の感じの物だった。出雲系外来の人達のもの。

 安倍川安西橋を渡る。南の川の中に「舟山」がぽつんあり。川は川筋をはいろいろ変えて、今の位置を流れるようになった。

 藁科川牧ヶ谷橋を渡る。橋の上流の真ん中に「木枯らしの森」が、でんと座っている。こちらは大きい小山。川は水も少なく、歩けそうなので、行ってみることにした。

 右岸橋の元で、堤防が消えているのを見つけた。霞提だ。

 水が出た時、周辺の田圃を遊水地にするあの霞提。この7月に大雨による、岐阜大垣での水浸し、あれも霞提だった。問題は、今の人は、その事情を知らずに住んでいることだ。昔の百姓の生活だったら、当たり前だったろうに、また、石垣を積んで土盛りして、家を作ったろうに。

 静岡県指定名勝「木枯森」の表示あり。

 丸子から牧ヶ谷に抜ける歓昌院坂を経て、駿府に通じる古道の傍らにあり、古くから歌枕としてその名を知られていた。清少納言が枕草子で「森は・・・こがらしの森」と記しているそうだ。

 20mもない山の頂上に、小さな祠があった。本居宣長の石碑もあった。

 歓昌院坂に掛かる。ハイキングコースの看板があったので、道は整備されてるなと思い込み登る。標高(171m)は高くないが、登りが難儀だ。勾配がきついようだ。その上、雨で道が荒れ、どれが道か判らないところがあった。

 峠を越えると、すぐに、林道に出た。地図を見ると山道が続くが、、見当たらない。林道を下る。途中、はだかになり、一服する。汗びっしょり。実に気持ちよい。今日は、1人も会わなかった。

 歓昌院へ行き損ねる。林道を通ったため、見落としたらしい。千手観音、薬師如来のお堂をお参り。

 吐月峰柴屋寺は入り口でお参り。

 新しく出来た初めての静岡匠宿を見て、とろろの丁子屋に向かう。2時だった。

本日歩いた概要図

 

 

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