23 鎌倉古道 西明寺 御油松並木 長福寺 力寿の墓 宮路山 小渡井の桝井 本宿 愛知 20 km 2002/10/02
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名鉄国府駅から。
国府と言う名も、この国府から。この辺は、国府と大江定基の事ばかりの様子。 |
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定基は、出家してからが、今昔物語などで有名のようです。前半の三河のお話は多分余り知られていないと思われる。今昔物語はまだ読んでない。 |
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宮路山は、壬申の乱絡みである。草壁皇子(天武天皇、持統天皇の子)が陣を構えた。宮前天神社は草壁皇子が神さんとなっている。また、持統天皇はこの宮路山まで、出向いている。息子草壁皇子を忍んできたのかもしれない。 残っている資料からは、なぜ三河に来たのかは判らない。海路で宮路山近くの港に着き、宮路山に登ったらしい。帰りは何処を通ったかは判らないようだ。 壬申の乱は、7世紀、天武天皇の兄と言われる天智天皇が死んだ後、その息子大友皇子と天武天皇との、国を2分しての争乱。天武天皇の皇后(持統天皇)は天智天皇の娘。大友皇子とは兄弟である。 十六夜日記の阿仏尼は、「紅葉いと多き山に向かいて行く。風につれなきところどころ、朽ち葉に染めかへてけり。ときは木どもも立ちまじりて、青地の錦をみるここちす。人に問えば、宮路の山といふ」 。紅葉の名所だった。 阿仏尼は、この後、平地の豊川を渡っている。 |
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ゆっくりの坂。ただ、舗装した林道で歩き難い。途中、登ってくる車2台と会う。歩く人には会わなかった。盗賊岩、浄瑠璃姫の腰掛け石などあったらしいが、今は、舗装道路で何もなし。 |
本宿と長沢の間が分水嶺となり、東側は音羽川となって、豊川に合流せずに、単独で三河湾に流れ込んでいる。今は、小さい川であるが、昔は、この細い谷間を流れ下った暴れ川だったようだ。谷全体が石ごろごろだったのだろう。その為、長沢〜赤坂間は、この宮路山に入り込んだと思われる。 |
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2002.10.06 追記 長福寺 力寿の墓 力寿の墓の場所が判ったので、お参りしてきた。
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墓の位置は、お寺さんに聞いて辿り着くことが出来たが、その時、力寿の供養は、墓地の入口にある観音堂で行っていると教えて貰いました。 |
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今日の歩き概要図
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