28 鎌倉古道 龍泉寺 剣塚 大悲堂 小栗街道 浄元寺 稲荷神社 山王神明社 愛知 16 km 2003/01/09
|
太政大臣藤原師長は平清盛の勘気を被り井戸田村へ流され、朝な夕べ琵琶を弾じて京をしのんだ。後に、出家して妙音院と号したが、これが妙音通りの名の起こりである。身辺の世話をしたのが村長横江の娘「かい」16歳です。 その師長の身回りの世話をし、やがてロマンが生まれ、師長に献身的に仕えたのですが、師長は赦されて京に帰ることになります。かい女は、土器の里(西区西枇杷島町)まで見送り別れを惜しみました。師長は、形見として守本尊「薬師如来」と愛用の「白菊の琵琶」を与えたといいます。 「四つの緒の調べも絶えて三瀬川 沈み果てぬ君よ伝へよ」と和歌を詠み、形見の琵琶をいだいて庄内川に身を投げてしまいました。 不勉強で知りませんでしたが、相当有名なラブロマンスで、いろんな書き物に書かれているそうだ。 |
|
|
この辺りは、鎌倉街道がよく残っている。 |
|
|
|
ここから、御器所1丁目まで、1本道があり、小栗街道(おぐり。または、こうず)と言われてきた。鎌倉街道の別の名とも聞いた。 沿道に、大法寺、八剣社、安祐寺、金比羅名古屋別院、龍福寺、寿栄寺、西福寺、浄元寺あり、お参りする。 8寺社の写真 |
|
鎌倉街道は京都と鎌倉を結ぶもので、別名「小栗街道」とも言われ、「十六夜日記」や「東関紀行」などの紀行文で知られている。その道筋は「尾張徇行記」によれば、萱津宿から庄内川を渡り、東宿から上中、米野、露橋、古渡地内に出、稲荷祠と犬見堂の間を経てその先、大喜、高田へは船で渡り、井戸田、古鳴海へ抜けるという。今では名古屋市の都市化にともなって、局部的に残っているに過ぎない。 |
|
本日の歩いた概要図
|
以 上 TOPへ戻る |