24 鎌倉古道 山中青木神社 鎌倉街道石碑 地蔵堂 山中八幡宮 明星院 称名寺 胎蔵寺 姫が城趾 生田城趾 愛知 21 km 2002/10/06
|
名鉄本宿駅から歩き出す。東海道を歩く人と会う。早足の人のため、頭を下げる挨拶だけ。 鎌倉古道は、東海道の少し南のルートらしいが、旧東海道を行く。集落を過ぎると、農道の形で、古道らしい道が残っている。東海中学校辺りは新規の大規模宅地開発地ではないためか、新興住宅の中であるが残っている。 古道は東海中学から山を越え、青木神社辺りに出て、谷に沿って、北上したらしい。 東海中学の南に入って山越えの道を探したが、見つからず、1号線に戻って青木神社に向かう。 青木神社をお参り。秋のお祭りの時期で、飾り付けや御輿が出ていた。 |
青木神社の近く、高台の縁沿いに、細い道があり、「鎌倉街道」の石碑があ り、草も刈ってあり、さっぱりしていた。面倒を見ていてくれるんだなと思う。 2,3軒の農家に、この碑の場所を訪ねたが、出てきた若い人は判らず、聞いてみると奥に入り、親に聞いてみてくれた。親御さんは、正確に教えてくれたが、私が高台縁の細い農道状の道に気付かず、何軒も同じ事を聞いてしまった。 地元の人は、その細い農道は、当たり前に知っているわけだから、こちらも知っている前提で話をしてくれる。人に尋ねること、答えることは、なかなか難しい物だと思った。 間違いなく、鎌倉街道を歩いているんだと、思い、一人でにやにやした。ただ、山は、道が消え、草があり、薮に入る準備もないので、山越えは、出来ないで居る。山越えしたのは、獣道でもいいが、歩ける道がある所のみだ。途中で、引き返した山道も幾つかあった事を思い出した。 |
山中小学校の裏の隅に小さな地蔵堂があった。大昔からの祠という感じ。こういう祠を見ると安心する。そのような気持ちが、古い祠を大事にして、何代も永続して残してくれるのだろう。 |
山中小学校の南に沿って山中八幡宮まで、古道らしい道が残っていた。山中八幡宮は、小高い山の上にあるが、その南も、山中城趾。古道は八幡さんと城趾の間のようだ。 |
三河一揆の時、家康が負けて隠れた鳩ヶ窟があった。一揆方が、家康捜索に来た時、この窟から鳩が飛び出たので、窟を改めず、去ってくれたので、助かったとのこと。 時々の支配者は、何でもかんでも自分に都合の良いように、解釈し、記録に残す。 藤川宿に入り、明星院、称名寺をお参り。このお寺の間を通り、北へ、山綱川を横切り、北方の山に取り付いている。私も、川と1号線を越え、向こうの山裾の集落へ。 |
道際に、この集落 の名「平八」のいわれと、昔ここに鎌倉街道が通っていたと書いた看板があった。 この集落を通り、山綱川の堤防を行く。 途中、又、看板あり、藤川の名の由来、駒爪の説明があった。 山の南斜面に卵形をした丸い石(花崗岩)に、それを囲むように厚さ20cmほどの別の石(変質した花崗岩)が包み、丁度、馬蹄を思わせる形の石で珍しいもの。この付近は、山綱川が大きく蛇行し、川岸に藤が自生し、藤の名所として知られていた。これより藤川と言うようになった。 |
古道と少し外れるが、胎蔵寺をお参り。 ここも、力寿姫のお寺さん。大江定基が、出家して寂昭と名乗り、建てたお寺です。 寂昭は、その後、中国にも渡り、菅原道長との手紙も残っているようです。また、能に「石橋」(しゃっきょう)があるが、そのワキが、この寂昭である。中国へは、44歳の時渡り、74歳まで生きた人。 |
この寺の裏山は、姫山、姫ヶ城城跡と言われているが、力寿姫を埋葬した所だそうです。山中城趾と同じように現地には、説明看板などはなかった。ただ、見晴らしの良い、城を造る に、よい場所だった。 これから、ほぼ乙川に沿って岡崎の町の入る。1号線を越え、名鉄名古屋本線まで田圃が続く。乙川の霞堤でもあるような平地だ。 |
その真ん中に、生田城趾があった。家康の家来、生田 四郎重勝の居城だったが、城替えがあって、その後無くなったとの説明があった。 ここから高台に移り、ほぼ乙川沿い。市街地化で古い道なし。 名鉄東岡崎駅で今日はお終い。 |
今日の歩き概要図
|
以 上 TOPへ戻る |