22 鎌倉古道 牛川原人 忠興八幡神社 牛川渡船 豊川稲荷 三明寺 三河国分寺尼寺 三河国分寺 愛知 29 km 2002/09/24
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古道は、赤岩寺山門から、多米西町を通り、牛川町乗小路への山越えである。麓の幼稚園辺りから山に入ったが、道らしいあともなく、薮がひどくなり、蚊に襲われ始めたので、山越えは諦め、泡を食って下山する。 山裾を大回りして、牛川町に入る。
牛川原人の碑のある史跡公園を探す。新興住宅地の中にあった。牛川石灰鉱山の採掘現場で発見され、この公園もこの会社の一部分だったと説明があった。石灰採取工場があったとは思われない雰囲気である。 |
河は、豊川(とよがわ)、土地の名は豊川(とよかわ)と言う。私も、ちゃんと使い分けしている。すっかり、三河の人になってしまった。 八幡社を西に行った辺りから、船に乗ったらしい。 |
丁度、向う側の鐘が鳴って、船が出る所だった。ちょっと待ってくれた。急ぎ乗る。私、1人。この辺りは、東海道が出来るまで、街道筋であっららしいですが、と声を掛けたが、あまりご存じないようでした。向こう岸に着くまで、渡しの話をいろいろしてくれた。 |
渡船は、両岸にワイヤーが張ってあり、滑車で船に繋がっていた。船は流れてしまう心配はなし。水深は1〜2m位。ほとんど流れはないように見える。 豊川の右岸は人工の堤防である。堤防の西側には、大村、長瀬、行明,柑子、瀬木の集落がある。昔からある集落とのこと。豊川の自然の高台の集落とのこと。堤防のない昔は、この 集落伝いに豊川を渡ったのだろう。 水面に大きな魚の群れが見えた。海の魚「ぼら」らしい。工事しているおじさんに声を掛けると、多分、ボラだろうとのこと。この上の下条橋まで、海水が入るとのこと。 私は、立派な堤防を行く。今は、豊川放水路が出来、堤防もしっかりしている。放水路分岐点に、小公園があり、一服する。 しかし、今でも、豊川には、霞堤防があって、洪水時、広い面積に水が広がるようになっていて、他の地域の水害や堤防の崩壊を防いでいる。自然とやんわりと付き合う昔の人が見える気がする。 自転車の私と同年配の人が話しかけてきた。鈴木さんとおっしゃる。いままでの生き方をいろいろ解説を挟み話する。ひどい事をしたので、女房子供親に見放され、いま1人で生活している。今日は休みのため、自転車でここまで来たとのこと。長い時間、話し込んだ。最後に、名前を名乗り、分かれた。四国遍路を思い出した。 |
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豊川の町は、豊川の西の高台である。豊川工廠のあった所、今は、工場群となっている。古道はこの辺りを通っていたようだ。今は、何もない。 |
ここでも、お百姓に何しに来たかと声を掛けられる。国分寺を見に来たと言うと、良く、ここにあることを知っているなとのこと。地図に書いてあると、2万5千分の1地図を見せた。 私の服装は、リュックを背負い、地図をぶる下げているので、多分、怪しい奴とは見ていないと思う。あまりこの種の人間は見かけないので、おもしろ半分に声を掛けるようだ。こちらも、そこら辺の雰囲気は良く判るので、こちらから、用件を作って声を掛ける場合もある。 最近、歩いていて、うれしいことがある。 コンビニが、便所を使わせてもらえるようになったことです。2,3年前は、はっきりと断られた。防犯上、客に便所を使わせなかったらしい。 いまは、どのコンビニでも、便所の標示があり、使えるようになっている。店員に声を掛けてと言う店が多い。 名鉄国府駅から電車になった。 |
2002.10.02 追記 三明寺
三明寺は、7,8世紀の創建の古いお寺。また、平安時代、三河国司・大江定基が愛人の力寿姫の死を悲しみ、剃髪して寂照と改め、力寿姫の面影を弁財天に刻み安置したと伝えられている。 寂照は、能「石橋」のワキである。入唐し、清涼山に来て石橋を渡ろうとした時、1人の樵夫に、この橋は昔の高僧すら難行苦行した後、初めて渡る橋であるから容易に渡るべきでないと諫められる。 |
西明寺、財賀寺、長福寺など、みんな大江定基が関わっている。 参道の石仏が綺麗だった。 写真を撮ったが、その時の気持ちと全然違う写真になってしまった。日陰の感じが、全然違う。撮ろうと思って構えない方が良いのかな。 |
今日の歩き概要図
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