25 鎌倉古道 真宮遺跡 真宮神社 渡城趾 妙源寺 山崎城趾 高木城趾 大行日吉法印の墓 宇頭観音 愛知 20 km 2002/10/09
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東岡崎駅付近は、広い台地である。矢作川の支流、乙川も北回りに大きい半円を描いて流れている。乙川の北側、右岸は、岡崎城、その城の北側に東海道があり、やはり、高台を成している。こ れら台地の西を、今、矢作川が流れている。 矢作川の西は、矢作川が自由に流れることの出来る通り道で、洪水の度に流れが変わったろうと思う。自然の堤防、高台がぽつんぽつんとあり、鎌倉街道はこの小さな高台を伝わってあったのだろう。 東岡崎駅前の龍海院、家康のお爺さんの建立。久後崎町の神明社、熊野神社をお参りして、南下する。 |
真宮遺跡は、矢作川を望む段丘上にある縄文時代から鎌倉時代までの複合遺跡。浜松の伊場遺跡より小さい。公園に整備されている。 この直ぐ南に、真宮神社あり。 |
JR東海道本線鉄橋付近が、渡りの位置。右岸西側には、渡城趾があり、高台だったんだろう。「渡里傳内忠氏築城の地」と書かれた立派な碑があった。12世頃の話らしい。
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家康の譜代の家来に鳥居氏がいるが、この地の出身で、発祥地の石碑があった。多分、渡城趾の渡里氏の子孫と思われる。 |
安養寺、善国寺、天徳院、をお参りしながら北上する。今は、このルートが高台伝いとは見えないが、鎌倉の道が大きく北回りして、犬頭神社に至っていることから、お寺のある所は、高台というか、自然堤防だったんだろうと思う。今の集落もお寺、神社の周りに多く集まっている。 |
再度、南下して、新興住宅地の中にある、白鳥神社熊野森の石碑がある神社に行き着く。熊野神社、犬頭神社、白鳥神社を合祀したものとの説明があった。 また、ここは、熊野森とも真野林とも謂われ、歌枕になっていたらしい。源仲正の歌「夕さればまのの林に風吹て矢はぎの里に夏はすずしき」の歌碑があった。 (源仲正:清和源氏。1100年代の人。頼光の曾孫。三河守頼綱の息子。頼政の父。) |
JR西岡崎駅前に妙源寺あり。真宗の親鸞がここの柳堂でここで説教したとの説明があった。 |
東海道線南に、上宮寺がある。家康と喧嘩した、一向一揆の本拠地である。寺内は守護不入であったが、家康が、兵量米を強制的に調達したことから、戦となった。一揆の大将が討ち死にして、家康の勝ちとなった。本堂が焼けて、モダンな本堂があった。 |
鉄道の北に戻り、西へ行く。遙か向こうに高台が見える。碧海台地である。その途中に、前庭天神社、院底天神社と併記した神社があった。 |
台地取り付け点に、日長神社があり、この辺りが、山崎城趾。土塁と溝跡があるらしいが、確認できなかった。 ここから台地の縁を北上する。途中、モダンな住宅の間に高木城趾。室町時代に居着き、家康に認められた人とのこと。 |
なお、北上すると、市杵島姫(いちきじまひめ)神社。ここは、別郷廃寺跡。古文に残っている、三州薬王寺跡とみる説もあるとのこと。古くからの道筋であることは間違いない。 十世紀末、慶滋保胤(よししげ‐の‐やすたね)が弟子の三河守大江定基を訪ねた時、名刹薬王寺に立ち寄った紀行文が残っているそうです。 |
三河万歳の大行日吉法印のお堂と墓があった。 熱田の僧が応仁の戦乱を逃れて来て、万歳を広めた。万歳師は矢よけの祈祷もし、戦場に付き従うようになった。家康が関東に出ると、万歳も関東に広めた。その頃の頭領が大行日吉法印であった。位牌も残っている。 |
名鉄名古屋本線の南に、宇頭観音。 |
本日の歩いた概略図
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