27 鎌倉古道 蔵王神社 諏訪神社 嫁ヶ茶屋公園 古鳴海公園 村上社 黄龍寺 地蔵寺 白毫寺
愛知 愛知
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km 2003/01/02
鎌倉街道へ
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中京競馬場前駅から歩き始める。この辺りは、桶狭間の近くであり、又、義経が鎧を掛けた松があったとかの記録が残っているように丘陵地だった。
宅地造成が進み林は神社仏閣の周りだけになった。
昔から言われていた鎧掛け松もなく、その近くには蔵王神社が在るはずだが見つけられなかった。八幡神社があったが周辺は区画整理中で赤土だらけ。
今は、すっかり宅地となり、昔の面影は、神社、お寺にその面影が感じられる程度となっている。
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諏訪神社があった。今は、小さな社だが、昔は、大きな神社だったらしい。
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この辺りから、鎌倉街道は北に向く。西は、海が入り込んでいた。今の天白川沿いに海が入り込んでいた。奥は島田橋辺りまで入っていたらしい。その東岸に成海神社がある。古い神社で、鳴海の氏神だった。
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 古鳴海町と言う古い名を付けた町名が残っている。気持ちが救われる。
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その付近に、古鳴海公園、嫁ヶ茶屋公園もあった。高台を下った所であり、ここから、船で海を渡った。
今の野並の八剣社の辺りと思われる。
区画整理の記念碑に下記のように書かれていた。
この地、嫁ヶ茶屋と古鳴海は、往古星崎庄の一部で鎌倉街道の交通要衝の一駅であった。
嫁ヶ茶屋の地名は古鳴海を通り過ぎる辺りに稲妻屋庄左衛門と言う茶屋があり、この茶屋の嫁女が美人の誉れ高く、広く人に知られ土地の名になったと伝えられて
いる。
鳴海は奈良・平安の時代から東海随一の交通難所と言われた。そのころの鳴海潟は今の古鳴海にあって潮の干満常成らず、旅人は満潮時には上野街道(めぐり3里)に迂回し、干潮時には浅瀬を渡渉した。
室町時代の末に干潟に新しい鳴海宿ができ、それまでのものを古鳴海と称するようになった。
この辺りは、農耕地と雑木林だった。
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桜台
高校の東に村上神社がある。ここに船を付けた。
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 ここから笠寺、桜、呼続などの高台が松炬島(しょうきょ)と言う島だった。村上神社には、巨大なクスノキと歌碑「桜田へ田鶴鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた) 潮干にけらし鶴鳴きわたる」があった。
この南に八幡社があり、桜田勝景址の看板と「桜田へ〜」の歌碑があった。共に海に面した高台で景色の良い所だったのだろう。勿論、今も高台である。
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 ここから500m程北、鳥栖町(とりす)に、八剣社と成道寺があり、お寺には、名古屋で最も古い(1515年)地蔵石仏がある。それに文字が刻まれていて、「鳥住伝心浄本庵主・・・・」とあり、鳥住から鳥栖と言う地名なった、との事。
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 西に向かい、名鉄を越えた所に、黄龍寺と地蔵院。
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この辺りから、西へ白毫寺辺りまで2m弱の幅の道が鎌倉街道とのこと。江戸の東海道との交差箇所は鍵形になっている。白毫寺下から、舟に乗り、熱田に渡った。
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 白毫寺は松炬島西のあゆち潟を一望出来る勝景地で、頼朝もここで休んだそうだ。ここにも立派な年魚市潟勝景の石碑があった。
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本日の歩いた概要図

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