2 武佐 老蘇の森 観音寺 愛知川  滋賀

23km   1996/08/15

中山道へ


 

 近江鉄道武佐駅から歩き出し。

 「いせ」の道標あり。伊勢への道標が沢山ある。お伊勢参りが盛んだったんだ。

 武佐神社をお参り。珍しく何の説明もなかった。東光寺、鎌若宮神社をお参り。

 暫く行くと、昔から良く詠まれている草枕の老蘇の森。老曽、奥石も「おいそ」と読む。新幹線のすぐ南。昔は広い森であったようですが、今は、新幹線から見ていると、あっという間に過ぎてしまい、よっぽど注意していないと確認できない。それほど小さくなってしまっている。

 東老蘇 にある老蘇の森の中に、鎌宮奥石神社があり、お参り。日本武尊蝦夷征伐の時建立、云々の説明あり。先ほどの鎌若草神社は西老蘇地区の奥石神社だ。

 老蘇の森の説明として「昔この地一帯は、地裂け水湧いて、とても人の住む所ではなかったが、孝霊天皇の御代、石辺大連と言う翁が神助を仰ぎ、松、杉、桧等の苗木を植えたところ、たちまち大森林に成ったという。大連は森の主として百数十歳の長寿を保った。それから老蘇の森と言うようになった。」とあった。

 新幹線を潜り、中山道を外れ、北に少し寄り道する。

 観音寺城趾、観音正寺。近江守護佐々木氏の居城。 佐々木道誉などの佐々木氏、その後、六角、京極二派に分かれ、六角氏の居城になったが、信長に攻められ、落城。

 観音寺山(繖山(きぬがさやま))の頂上にある山城。今でも遺構がよく保存されているようだ、行かなかった。城趾の隣、佐々木氏の観音正寺をお参り。

 その城下は、石寺の集落。ここは最初に楽市、楽座の制しかれたところ。今は、農村そのもの。ここの直ぐ北には、信長の安土城がある。

 「清水が鼻(はな)」。繖山とその南の箕作山(みつくりやま)の間、の字名。よく見る名前だ。

 調べてみると木曽路巡覧記という書物に「清水がはな−酒やあり。清水女良とて女のよきところと云。一里塚。此所焼米はせを袋入売」とある。あぶってはぜらした餅米を、明治中期まで、売っていた家が今も残っているとのこと。次に、ここを通る時、確認しよう。

 てんびんの里、五個荘町。天秤棒一本で大商人となった五個荘 近江商人からてんびん。古い町並みがあるようだが、別に1日掛けてみる価値あり。今日は素通り。
 「むちんばし はし銭いらず」の愛知川(えちがわ)を渡る。直ぐそこが 琵琶湖に入る河口と思われるが、砂利の川底が丸見え、暴れ川らしい。
 今日は、ここで切り上げ、中山道と山1つ北の彦根の彦根城を訪ねた。
 

以     上   TOPに戻る