12 上松 木曽福島 長野 20km 1996/11/03 作成 2003/03/26 21 長野 寝覚ノ床 木曽の桟 1996/11/03
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木曽川まで、相当の下り。国道に出た所に、今の本店、そばの越前屋があり、お客で一杯だった。 |
謡曲「寝覚」は、延喜の御代に寝覚の床の三帰り(みかえり)翁が寿命めでたき薬を与えると聞いて、勅使が立つ。勅使は老翁に会い、寝覚ノ床の謂われを聞くと、三帰りの翁は生所も知らず出所もなく、寝覚ノ床二千歳を送る中、寿命めでたき薬を服し、3度若やぐ故、三帰りの翁と名づくと言う。 これが、浦島太郎に変ったんだろう。 |
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写真の石積が尾張藩の作ったもの 現在の国道も、同じ構造だ。 |
桟や命をからむ蔦かづら 芭蕉 かけはしやあぶない処に山つつじ 浪と見ゆる雲を分けてぞ漕ぎ渡る 木曽の桟底も見えねば 西 行 かけはしふめば旅のこころのゆるるとも 山頭 |
白川阿子多丸は京都の北白川に住む宿衛少将重頼の一子で、母が突然の病でなくなり、父は後妻を迎えた。この継母にいじめられ阿子多丸は家出し叔父のいる奥州に向かった。しかし木曽路の板敷野の集落まできたとき病のため15才の若さでなくなってしまった。 「この山に捨つる命はおしからであかではなれし父ぞ恋しき」の辞世の句を残した、と伝えられる。 その後、夢枕にたった阿子多丸からそのことを知った父重頼は、姉利生御前とともにこの地を訪れた。姉の利生御前は、「先たつも後るも同じ草の露何れの秋ぞあはで果つべき」の一首を残し墓前で自害してしまった。 このことを知った父重頼は姫をねんごろに弔い、初七日の後にまたしても墓前で自害してしまった。 この話を風の便りに聞いた継母は、自分の所業の浅ましさを知り、京からこの地を尋ね、また墓前で自害したと伝えられる。 |
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