17 下諏訪 和田峠 和田 長久保 芦田 望月 長野 51km 1997/08/30〜1997/08/31 作成 2003/04/09
|
JR下諏訪駅から歩く。諏訪大社のお参りは省略して先へ行く。 甲州街道との分岐点に、綿の湯(わたのゆ)あり。諏訪明神のお妃が、日頃使っていた化粧用の湯を綿に浸して「湯玉」にして、下社へ持ってきた。その湯玉を置いた所から湯が湧いたので、綿の湯と言われるようになった。神さんの湯で神聖なため、やましい者が入ると濁ったそうだ。 |
本陣の跡。よい庭があるとのこと。 今ならば必ず拝見するが、どういう訳か拝観しなかった。 |
児湯(こゆ)。旧中山道添いの下諏訪古来の三名湯の一つ。殿様しか入れなかった湯だったというが、今では源泉が枯れてしまったが、名前を復活し昭和62年オープンした 湯屋があった。湯は過旦(かたん)の湯と城山の源泉から引湯との事。過旦の湯の写真なし。 |
慈雲寺への登り口に、龍の口(りゅうのくち)あり。龍の口から水が出ている。岡谷の人が作った物で、慈雲寺の参詣者 と 中山道旅人用の水口。お寺へは登らなかった。 |
芭蕉の句碑 「ゆきちるや 穂尾の薄の刈り残し」 あり。 |
樋橋(とよはし)。和田宿との中間で、茶屋本陣があった。向かいには、地蔵堂。 |
近くには、浪人塚があった。明治維新の水戸天狗党が幕府方と戦い戦死者を出した所。 最近建てた、「和田嶺合戦百年祭之碑」もあった。 |
西餅屋を過ぎ、石小屋跡に出た。昔、峠越えの避難所として、幅3m、長さ55mの石垣の壁と片屋根の大規模な物だった。今は朽ちた石垣のみ。 |
和田峠、標高1600m。冬は大変だったろう。今は、トンネルで峠越え。 諏訪の標高が、900mほど。700m登ったことになる。 |
東餅屋を過ぎ、接待に接待茶屋跡あり。再建されて、今もお休み所として内部が使えるようになっていた。 江戸の豪商が、旅人のための、粥と焚き火、馬の飼い葉を用意したとのこと。際に湧き水があり、地元の人が汲みに来ていた。長距離トラックの運転手さんと3人で世間話。 世間話も歩きの効用だ。井戸端会議が流行るわけだ。 |
三十三体観音。 道路工事などでバラバラになったのを、1973年に調査発掘して、現在、二十九体のみ。四体は不明だ。 |
道祖神のかわいい石仏があった。 |
元庄屋の 「中山道和田宿旅人御宿本亭」の看板のある本亭旅館に泊まる。 もう少し早く和田峠を越える予定であったが、この本亭を含めて和田の周辺の宿は、夏休みで、満杯だった。それで今日になった。 何とか、軽井沢、碓氷峠を信越本線が動いている間に越えれそうだ。 |
31日。 国道のバイパスが向こうに見えるが、何か大きな建物もあり、覗いてみたい気もしたが、本陣他の施設も含め、外観のみ拝見し、スタート。 |
旅籠「かわちや」が再建され、「歴史の資料館」となっていた。 |
茅葺きの八幡社あり。 鎌倉武士で、北条氏に殺される和田義盛を祭ると言う。義盛は三浦一族だったと思ったが。 |
国道際に、茅葺きの社の若宮八幡神社と、その際にある武田信玄と戦い滅びた和田城主大井信定親子の墓を参り。 |
長久保宿の本陣の江戸初期の建物が、まだ、残っていた。 しかし、知らないで通れば、宿場だったとは、思われない。すっかり変わってしまっているのだろう。 東海道の鈴鹿、坂下宿が、ここよりもひどくさびれ、建物も無く、跡を示す立て看板のみだったように記憶している。 |
宿の東外れに、松尾神社。道路から一礼する。 |
笠取峠を越えた。長野県天然記念物の松並木、100本ほどの松がある。一里塚の跡もあり。 |
芦田宿本陣の建物が残っていて、県宝とした説明があった。 ここも長久保と同じくさびれている。 |
茂田井に入る。高札場跡の看板、酒造があり 。若山牧水が、ここの酒を愛用したとの事で、牧水の歌碑があった。
|
望月宿野入り口に大友神社あり、お参りする。 |
例の2階の高さの低い建物、「宿 大和屋 」の看板のある建物があった。昔からの旅籠だそうだ。望月は馬の産地。 バスで、小諸へ出て帰る。 |
以 上 TOPに戻る |