16 6地蔵 九品寺 一言主神社 極楽寺 橋本院 高天彦神社 高鴨神社 2000/10/01
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近鉄橿原神宮、尺土乗り換え、御所へ9時30分到着。葛城氏、鴨氏など、大和王朝の成立過程で吸収された古代の有力者の土地、葛城古道を歩くため。
多分、稲や鉄器を持って渡来した人たちだったと思う。数百人の集団であっても、先住民は吸収されてしまう事だろう。100年も経てば、新しい人たちの天下。律令制の口分田(国が個人に頭数によって土地を与えた。従って死ねば返す)の制度から見ても、大陸の人たちだったろうと思う。 この様な土地に来てみると、稲作は山の迫った谷の開けた所が、適していたんだなと、つくづく思う。道に沿う水路は豊富な水が勢い良く流れている。大きな川の水はコントロール出来なかった。 御所から、山裾に向かう登り道を行く。道の傍らにお地蔵さんが6体彫られている6地蔵をお参り。いつ来ても、花が供えてある。ずっと昔から、親から子に伝えられて今の人たちが、花を供えてくれている。 田の道を南下する。駒形大重神社を横に見てあぜ道を行く。まもなく九品寺の門前に出た。弘法さんが関わるお寺さんとのこと。 九品寺の裏山に千体地蔵石仏がある。以前拝んでいるので、今日は省略する。葛城古道をなお南下する。彼岸花が畦、溝周りにぎっしりと生え、実に美しい。しかもずっと続いている。果てることなしと言う感じ。 |
御所観光協会の”大和三山がもっとも美しく見える場所”の看板に出会う。コスモスがびっしり生えた場所である。北側が拓け、奈良盆地が広く見渡せる。山からの水が豊富にあり、背後は葛城山、この地方を治める最良の土地である。
富士山のような単独の山、畝傍山、耳成山が確認できる。香具山は他の山に連なる山なので、あれであろうと推測する。さすがに、同じように歩く人たちが足を止めていた。挨拶と見晴らしのよい話をする。 しばらく南下すると、綏靖天皇(すいぜい、神武天皇の息子、第2代天皇)葛城高丘の宮跡の石碑あり。 |
一言主神社に着く。山を背負った古い神社。雄略天皇(21代天皇、400年代の天皇)が葛城山で狩りをしたとき、一言主大神と会って、「あは、まがこともひとこと。よごともひとこと。ことさかのかみ、かつらきのひとことぬしのおおかみなり」と言われたそうです。いまでも一言の願いを聞いてくれるそうです。その神様の神社。
謡曲「土蜘蛛」の「葛城山に年を経し土蜘蛛の精魂なり」と言った、都で悪いことをして源頼光に退治されてしまう土蜘蛛の土蜘蛛石がある。ほほえましいが、古い土地である。 蜘蛛は、大和政権に対抗する悪い奴の意味であり、退治されてしまうものである。八岐大蛇(やまたのおろち)は出雲の暴れ川だそうです。そんなことを考えながら、南に向かう。 あいかわらず、彼岸花が面に広がって目に入ってくる。限りなく続く。 集落の中に長柄神社あり。日本書紀に天武天皇が流鏑馬をした神社と記述ありとのこと。 極楽寺。平安時代の創建。大きな墓地を抱えている。 |
高低差200mほどの山道を登る。登り切ると平らな台地に出た。橋本院。700年代の創建。今は天台宗のお寺。昔は、鑑真和尚も関係のあった格式の高いお寺さんだったようです。
このお寺の隣が高天が原。石碑あり。神様の住んでいた所だそうです。確かに小高い広々とした所である。 |
万葉集の歌の石碑があった。「葛城の高天の茅野早知りて標刺(しめさ)さましを今そ悔しき」(高天の里にこんな美しい娘さんがいたことをもっと早く知っておれば命の限り抱きしめておくのであったのに。残念、残念。今はすでに人妻になってしまっていたよ)
葛城氏の神様、高天彦(たかまひこ)神社をお参りする。この神社も古い。近くに「鶯宿梅」(おうしゅくばい)あり。また、今は石碑のみの「蜘蛛窟」あり。 高鴨神社お参り。古代豪族鴨族の神社である。賀茂神社、加茂神社の総元締め、国譲りもあったようだとの看板あり。 我が日本国は国譲りの国。大陸の中国、ヨーロッパとは大違いである。稲から文化まで大陸から来たのに、島国であることが、国譲りと言う、緩やかな征服が出来たんだなと思う。 口分田は、開墾を推奨した結果、土地は私有化荘園化して個人の土地私有化の大きな流れの中に隠れてしまった。他民族に取ったり、取られたり、そのたびに相手を皆殺しにする大陸は、土地私有化は発達しなかった。耕作権のみが有効だった。とか考えながら歩いた。 船宿寺は、時間無くお参りは取りやめ。風のバス停から高田駅までバスに乗る。 |
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