31ー1 朝むつ橋 玉江の橋 継体天皇像 永平寺 祇王館跡 汐越の松 福井 石川 富山 15km 2004/05/10〜2004/05/13
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3年越の計画を漸く実行出来ました。
名古屋から福井へ行き、レンタカーを手配、福井、石川、富山各県の謡蹟、名所旧跡、寺社を4日間廻ってきました。天気には恵まれず、土砂降りもあ ったが、兼六園を除き、ほぼ、予定箇所を廻ることが出来た。走行距離707km。 |
あさむつ橋は、謡曲には、出てこないが、有名な場所である。浅水(あさんず)の橋、朝津の橋、あさむづの橋とも言う。 朝六ツ橋。 福井市浅水町(あそうずちょう)のメイン道路に架かる橋で、直ぐに見つけた。川は朝六川。枕草子「橋は、あさむづの橋、長柄の橋、・・・」の「あさむづの橋」である。定家、芭蕉も詠んでいる昔から名の知れた橋である。今は小さな河と橋であるが、昔から、交通の要衝だった。 「浅水のあかむくことはよもあらじその如月の望月のころ」 西行 「ことつてんひとの心にふみたにもみぬあさむつの橋」 定家 「たそがれに寝覚めてきけば朝六ツの黒戸の橋のふみとどろかす」 詠み人知らず また、かの新田義貞の妻、勾当内侍(こうとうのないし)は、越前に出陣した義貞を追って、ここまで来たが、戦死したと聞いて気絶してしまった。村人の介抱で、朝の六ツに気が付いたので、朝六ツ橋と言うようになったそうだ。琵琶湖の辺に、勾当内侍の墓があり、やはり義貞の戦死を聞いて入水したと説明があった。 |
「越に来て冨士とやいはん角原の文殊がだけの雪のあけぼの」 西行 浅水に泊まり、早朝この橋から、文殊岳を望んで美しい姿にうたれた。その時刻が「朝の六ツ」だったので、朝の六ツ橋と言われるようになったそうだ。 「朝六ツや月見の旅の明けはなれ」 芭蕉 あさむつは、「明け六ツ(午前6時)」とかけている。月見をして一晩中歩いていたら朝になって明け離れてきた。 |
謡曲「山姥」に、「袖に露散る玉江の橋かけて末ある越路の旅・・・・」とある。 花堂(はなんどう)の玉江の橋を探す。 2,3人の人に聞くも判らない。漸く、狐川を見つけ、「玉江二の橋」を見つけた。玉江はここより少し南の江端川に「玉江橋」があり、狐川の橋は二の橋になったそうだ。 玉江と言う地名は、三国町、大阪にもあるとのこと。 説明文、石碑は、「玉江二の橋」にあった。「月見せよ」の句が、石碑の説明の中に書いてあった。 |
「夏かりの芦のかりねもあわれなり玉江の月のあけかたの空」 俊成 「月見せよ玉江の芦を刈らさぬさき」 芭蕉 玉江の葦に穂が出ている。この穂波に映る月はさぞや美しいことであろう。この葦が刈り取られないうちにしっかり月見をしておこう。 奥の細道には、「あさむづの橋をわたりて、玉江の蘆は穂にいでにけり・・」とある。 |
建っている場所は、古墳があった。十分な説明文がなかった。際だった発掘物は無かったようだ。 継体天皇は、6世紀の天皇である。奈良の天皇家に適任者が無く、ここ北陸の田舎にいた継体天皇が天皇になった。継体天皇は即位して、数十年奈良の地に入らなかった。入れなかったかかも知れない。乱世であった。 |
永平寺玄関口。 まだ若かった頃、1度お参りしたことがあるが、この入り口も、内部の建物も、思い出せない。長い廊下だけ覚えている。 写真撮影について、修行中のお坊さんの撮影はだめ。建物、庭、仏像は、好きなように撮影可、と説明があった。 私もこの考え方を好む。 |
仏殿等七堂伽藍のある中庭。 |
中央の須弥壇には、本尊のお釈迦さんが居らした。小さい仏像だった。 |
仏壇の中央に、韋駄天が祀ってあった。京都奈良のお寺さんには、お寺を誇示する様に、立派な仏像が多いが、曹洞宗永平寺の仏像は、小さい仏像のみであった。 鎌倉仏教は、以前の宗教に反発して起こした仏教であるから、旧宗教に比べて、当然、違いがあると思う。 吉崎御坊も、多分同様な感じを受けるだろうと思った。 |
浴室。僧堂と東司(とうす 便所)と合わせ、三黙道場(さんもくどうじょう)と言う。修行の場。 便所も綺麗だった。 若い頃は、便所は、汚い、不潔な所と思っていたが、四国遍路を始めて、生き物の排泄は、食うことと共に絶対不可欠な重要な行為と、漸く気が付いた。 我が家の狭い便所も、大事にしなければと思う。 |
内側は、中雀門。
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再び、福井市内に戻り、三郎丸1丁目の「祇王祇女屋敷跡」を尋ねた。 県道沿いに道に面して、整備されていて、直ぐに見つけた。 仏御前の故郷らしいこの地に「祇王祇女屋敷跡」があった。 謡曲「祇王」の、ツレ祇王は、清盛の愛妾だったが、仏御前に追われ嵯峨野の妓王寺で余生を過ごし、生国は琵琶湖湖畔の、野洲の祇王村と言うことになって いる。(土地の名、水路の名、お寺が今も現存。野洲の生まれが本当と思う) 祇王祇女、仏御前等は、踊りの上手な、人扱いの良い、美人(当時、白拍子と言われていた。今の言葉で言えば、遊女。しかし、今の遊女とは、異なると思う。当時は、皆、必死に生きていた。特に女は、男を離れたら生けて行けなかったと思う)であったが、素性は定かでなかったようだ。清盛が、そのような女を好んだ様だ。 |
芦原ゴルフクラブのフロントに、その旨告げると、側にいたゴルフ客も一緒になって、親切に在り場所、行き方を教えてくれた。ゴルフ客は、ほとんど引き上げているため、危険はなかったようで、1人で 行けとのこと。ゴルフコースを横切って、海岸近くの松林に向かった。「奥の細道汐越の松遺跡」の石碑と松があった。 海岸は、随分、下にある。松林の外れは、崖で、海まで、落ちているようだ。この辺りは、海の浸食で、海岸線が陸側に食い込んできているとのこと。昔の「汐越の松」は、海の中になっているのだろう。 芝生が含む水で、靴がびしょ濡れとなる。帰り支度のゴルフ場にお礼の声を掛け、宿泊地芦原温泉に向かう。安い民宿を予約してある。 24時間使える湯につかり、食事をし、9時には寝ていた。 |
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