31ー3 鴨池 尼御前岬 加佐岬 篠原古戦場 安宅の関 勝楽寺 多太神社 仏御前屋敷跡 福井 石川 富山 15km 2004/05/10〜2004/05/13
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最盛期には、数万羽の雁、鴨が集まる野鳥の楽園。1993年ラムサール条約の登録湿地となっている。 |
尼御前像が建っていた。 |
コンクリートブロックがびっしりと敷設してあった。 |
平家の武将、斎藤実盛は篠原の戦いで、戦死するが、年取った自分の白髪を洗って、墨に染め、鏡をここに埋めたと言う。 |
篠原古戦場は、篠原新町、篠原町一帯だ。 有名な伊豆山神社の近く、熱海市伊豆山岸谷にも、実盛の墓がある。小さな墓。実盛の子達が建てたと言う。 東京湯島天神の近くに、実盛別邸跡が残っている。実盛は、越前から、武蔵国長井の庄(埼玉県妻沼市)に移り、源義朝、平宗盛に仕えた。 実盛は、「あっぱれ。おのれは日本一の剛の者とぐんでうずよとて(組んで死のうとするのか)鞍の前輪に押しつけて首かき切って捨ててんけり」と言って頑張るが、討たれてしまう。化粧しての覚悟の戦死である。 |
「牡丹くずるる天地洞然たる中に」 森本之棗 与謝野晶子もここで歌を詠んでいる。 「北海が盛りたる砂にあらずして木曽の冠者がきづきたる塚」 与謝野晶子 実盛は、木曽義仲が幼い時、命を助け、木曽に運んだ男であるが、平家に殉じて節操を貫き、木曽義仲の家来、手塚太郎光盛に討たれた。 |
手塚太郎光盛が義仲の首実検に実盛の首を持ってきて、これは実盛ではないかと言う。樋口の次郎が知っているからと召される。 謡曲「実盛」には、次のように書かれている。 樋口参り唯一目見て涙はらはらと流いて「あなむざんやな。斎藤別当にて候ひけるぞや。実盛常に申ししは、六十に余って軍をせば、若殿原と争いて先をかけんも大人気なし。又老武者とて人々に、あなづられんも口惜しかるべし。鬢髭を墨に染め、若やぎ討死すべき由、常々申し候ひしが、真に染めて候。洗はせて御覧候え」と、申しもあへず首を持ち御前を立ってあたりなる、この池波の岸に臨みて水の緑も影うつる柳の糸の枝垂れて気晴れては、風新柳の髪をけずり、氷消えては波旧薹の髭を洗ひて見れば、墨は流れ落ちてもとの白髪となりにけり。げに名を惜しむ弓取りは、誰もかくこそあるべけれや。あらやさしやと皆感涙をぞ流しける。 その首を洗った池である。 |
「むざんやな兜の下のきりぎりす」 芭蕉 右の地蔵の際には、篠原合戦七百七十年記念と書いた石碑があった。 |
巫女さんが、安宅の説明をしてくれると言うので、お願いしたら、十分程説明があったが、最後に、お守り、お札の購入を勧められた。 難関突破のお守りを買った。 |
弁慶逆植えの松 句碑 「住吉の神はあらたか月まいり」 作者読めず |
「松たてる 安宅の砂丘 その中に清きは文治 三年の春」 与謝野晶子 句碑 「落ちてゆく主従を偲ぶ松しぐれ」 塩田紅果 |
また、その一角に勧進帳の名画面。富樫、弁慶、義経の像あり。 |
根上町道林町の町体育館 県道25号線沿いにあった。 謡曲「安宅」では、土地の明示はない。義経記に「安宅の渡りを越えて、根上の松に着き給う・・・」あり。 ここは、根上の道林寺というお寺の跡である。 安宅の関を無事通り抜けるための芝居とは言え義経を打ち据えた弁慶がその無礼を詫び、互いに手を取り合い涙にくれた場所と言う。 謡曲「安宅」では、富樫が悪いことをしたと言って、酒を持って来て、ここで酒宴を開く。弁慶は舞を舞い上げ、義経を、「とくとく立てや」と追い立てて、弁慶は富樫に挨拶して立ち去るのである。 弁慶は、最後まで、気を抜かなかった。作者の心意気。 |
「野球の館」へ行ってみたが、毎週火曜日は休館日だった。 所在地 石川県能美郡根上町山口町ロ137番地 立派な駐車場あり。 |
富樫の菩提寺。小さなお寺だった。富樫氏は、蓮如の一向一揆で滅んでいる。 |
木曽義仲は斎藤実盛の供養と戦勝のために、実盛の兜を、この神社に奉献した。 国重要文化財に指定。 |
お墓があった。新国道の開通で、小さくなってしまったらしい祠があった。 旧道にバス停「原」があった。 |
集落は旧道沿いにあり、その中心辺りの林氏宅には、仏御前尊像があるとのこと。大きな石碑が建っていた。時間が無くなり、拝見は出来なかった。 |
今夜の泊まりは、白山一里野の民宿。ここから白山方向へ25km。一里野より奥へ行けば、白山スーパー林道となり、岐阜県白川村へ出る。 |
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