31ー5  越中の桜井 弓の清水 大伴家持像 藤波神社 つままの歌碑 雨晴岩  如意の渡し 放生津八幡 奈古の浦 呉羽山八幡   福井 石川 富山

15km       2004/05/10〜2004/05/13

能舞台の名所・旧跡へ


 

 5月12日、時間があったので、富山市の北の黒部市に「越中の桜井」を尋ねた。
 越中の桜井 富山県黒部市三日市の市民会館に大きな、「佐野源左衛門常世之遺跡」と書いた碑があった。

 上野の松井田、加賀の梅田には、何もなかったので、碑を見付け嬉しく思う。

 桜井と言う地名は見なかったが、桜井高校、桜井病院があった。バスが通っていれば、バス停に名が残っていただろう。

2004年5月13日 昨夜は、砺波に泊まる。

今日も、雨空。

 弓の清水(しょうず) 高岡市常国 県道9号線沿い 。

 平成14年に、地元の常国旧蹟保存会によって、水汲み場の新設と源泉池周囲の保護石柱が修復され、乗用車2,3台の駐車場もあり、整備されている。

 木曽義仲は、進軍途中、兵たちがのどの渇きを訴えたので、「南無八幡大菩薩」と唱えながら、矢をがけ下の地に放った所、そこから清水が湧き出た。その水で兵たちののどの渇きを癒し、士気が大いに上がったと言う。「弓の清水」の名称は、この故事による。

 この清水はどんな日照りの時も枯れたことがなく、また、病気の人もこの水を飲むと治ると言い伝えられているとか。

 磐若野(いわれの)古戦場は、弓の清水一帯と言われている。

 寿永2年(1182年)、義仲軍の今井兼平が平家平盛俊と戦い、平氏は西に走り、倶利伽羅峠の合戦の緒になる古戦場。

 写真は義仲像。

 高岡市二上山(にじょうざん)公園の大伴家持像を尋ねる。標高274mであるが、海の近くのため、274m登ることになる。

 天平18年(746年)、大伴家持は、越中の国守として赴任し、6年間この地にあり、奈良の二上山と同じ名を持つ山が大和から遠く離れた越の国にもあることに感動し、多くの歌を詠んでいる。

大伴家持は、万葉集編纂に加わり、自分の歌、473首あり、第1位の多さ。

 藤波神社お参り。 氷見市下田子 国道160号線から、少し東に入った下田子の集落の中にあった。 駐車場なし。

 ここは、昔、多祜(たご)の浦で、低地に広がった湖水で、氷見潟(ひみがた)とも言った。今は干拓され、十二町潟(じゅうにちょうがた)が残っている。藤の名所だった。

 今も、藤のど太い幹が参道の階段を覆い被さっていた。

 謡曲「藤」では、加賀の僧が、善光寺参りの途中、多祜の浦に立ち寄り、今を盛りの藤を見て、「おのが波に同じ末葉のしをれけり(ぬる)藤咲多祜の恨めしの身ぞ(や)」と口ずさみ、「古言の思い出でられて候」と言う。ここで、藤の精に出会い、つまらない歌を詠じたと文句を付けられ、歌問答を行う。やがて、夜も更けると花の精が現れ歌舞をして僧を慰めた。

 「おのが波に・・・」の歌は、藤原氏の出の慈円の歌。なお()書きの「ぬる」「や」は慈円の歌。謡曲では、少し変化している。

 わが氏である藤波の影になり藤の末葉は枯れてしまった。その子孫の私は黒染の衣に身をやつし涙している。藤が咲く多祜の浦ではないが、恨めしく思われる我が身よ。

 謡曲は、流派によって、余り差はないが、この曲は、観世流、宝生流に有るのみでその他の流派には残っていない。又、両派の差異も大きい。謡曲として余り良くなかったと言うことかなと思う。後の人が直したくなる。同じような曲に「梅」がある。

 大伴家持の歌碑。藤波神社の裏手に建っていた。

 「藤波の影なす海の底Cみしづく石をも珠とぞわが見る」 家持

 家持を主にした万葉の歌碑が随分あるようだ。

 万葉を尋ねて又来なければならない。

 義経雨晴(あまはらし)岩。 高岡市雨晴 氷見線雨晴駅の200m東の鉄道沿い 。駐車場あり。

 奥州下りの義経一行が、雨に遭い、避難した所。

 二上山の山裾が富山湾に落ち込むこの辺は、日本海側の数少ない、遠浅の海だそうだ。古く有磯海(ありそうみ)と言い、歌枕になっている。

 紅葉川址址。 義経雨晴岩より 200mほど東の小公園に「つままの歌碑」がある。謡曲「藤」に「ささぬ刀奈美(となみ)の関越えて青葉に見ゆる紅葉川・・・」の紅葉川が出てくるが、二上山の麓の、この辺りを紅葉川は流れていたが、今は 枯れている。

  「磯の上(へ)のつままを見れば根を延へて(はへて)年深からし神さびにけり」  家持

 つまま:クスノキ科の常緑喬木タブノキの古名。年を経ると根が地上にあらわれ、神聖視された。

 如意の渡し 高岡市伏木古府 小矢部川の渡し、今も渡しがある。氷見線伏木駅100mを東に小矢部川岸 。駐車場あり。

 義経記巻7に、「如意の渡にて義経を弁慶打ち奉る事」がある。渡しで疑われ、弁慶は義経を扇で打つ。

 能「安宅」では、安宅で、金剛杖で打つ。

 渡し乗り合い所の南の小公園に、弁慶が義経を打つ像が建っている。扇で打っている。

 小矢部川と庄川を渡り、新湊市に入り、放生津(ほうしょうづ)八幡宮をお参り。 海岸沿いの古い町並みの中にあった。  駐車場無し。

 放生津八幡宮は、天平年間(746年)に、大伴家持が越中の国司として在府中、常に奈呉の浦の風光を愛し、豊前国宇佐八幡宮から分霊を移して祀ったのがはじまりであると言う。そして、正和年間(1312年)放生津城主名越時有が社殿を造営した。青松に覆われた森は遠くからも見え、地方の総社としてあがめられ今も参拝者が絶えない。

境内に、確認しなかったが、歌碑句碑がある。

  「あゆの風いたく吹くらし奈呉の海人の釣りする小舟こぎ隠るみゆ」  大伴家持

  「早稲の香や分け入る右は有磯海」  芭蕉句

謡曲「藤」に「奈古の浦わも程近く眺めに続く景色かな・・・」とある。この辺りの浜が「奈古の浦」である。

 呉羽山八幡お参り。 富山市安養坊の呉羽山公園の登り口にある、小さな八幡さんだった。

 今井兼平が磐若野(いわれの)に出撃する前に布陣した所。

 今日も、時間があったので、金沢の兼六園と思ったが、大雨が続いたので、福井まで戻ることにした。
 

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