19 唐橋 兼平墓 義仲寺 竜ヶ岡俳人墓地 関寺 蝉丸神社 山科残存土塁
2001/02/04
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木曽義仲がこの橋を渡る前に粟津ヶ原で討ち死にし、平盛久が勢多の長橋を打ち渡ったと言う橋だ。近江朝の頃にはあったそうです。 昔は川のコントロールがうまく出来なく、道は丘、山裾の道が多い。一方、稲は水がないと育たない。このあたりの東海道は、琵琶湖の水面から相当高い位置にあり、よく判る。 木曽三川附近は船の東海道。愛知県豊橋付近の御油赤坂から旧東海道は平地を横切り吉田横須賀に出ているが、室町時代以前の東海道古道は、宮路越えと言って南方面へ、宮路山越えをしていたようです。更科日記などに、宮路越えの紀行文が有るとのことです。 京都に向かい、もと来た道を北上する。旧東海道はJR石山駅を横切って、かっての粟津ヶ原を行く。駅の北側には、名残の道が残っている。義仲に自害を進め、駆け込ませた松林は、今は工場、住宅のみで見当たらない。 |
数日前まで、たくさんの軍を抱え威張っていた義仲と兼平は、落ち目になると、瞬く間に軍は消え失せ、この粟津ヶ原に、ただ、主従2騎になってしまい、義仲は射捕られ、兼平は「自害する見本」を示した。 |
膳所の狭い旧東海道沿いに日本三大俳諧道場(京都落柿舎、大磯鴫立庵)の一つ、義仲寺がある。 義仲墓、巴塚、山吹塚、芭蕉墓、無名庵などがある。芭蕉「旅に病んで夢は枯れ野をかけ廻る」、又玄(ゆうげん)「木曽殿と背中合わせの寒さかな」があった。また、巴の消息の説明看板もあった。それによると、木曽で90才の生涯を閉じたとのこと。 |
「此附近露国皇太子遭難之地」の石碑を見て、札の辻。東海道は、この辻を左折。真っ直ぐは、東海道の裏道、小関越え。 |
お寺の入り口に「牛塔(うしのとう)」がある。「関寺縁起」に、関寺建立の時、仏の化身と言われた材石を運んだ牛がいたが、工事が終わると共に死んだので、供養するためにたてた塔がこの牛塔と言われているそうです。 小野小町の供養塔や、お地蔵さんの集団があり、これは信長の比叡山の焼き討ちの際の行き場のない石地蔵が沢山あり、これを集めたとの説明看板があった。 |
山科に下る途中に、月心寺(げっしんじ)がある。庭に走井の水がある。みずがこんこんと湧き出ている。以前は、尼さんが住んでいたと思ったが、今日は、人の気配がない。大分、荒れていた。 四ノ宮川を渡ると、右に山科地蔵。 先回、山科本願寺を訪ねて、本、「戦国の寺、城、まち」を手に入れ、勉強したので、土塁の跡を再確認することにした。 先に見た土塁の南方面に少し離れたところに、相当、大規模な形で残っていた。新幹線の車窓から見える、あの土塁を見てきた。改めて、宗教と言うか、民衆、農民の力というか、凄さを改めて思った。図太く、したたかに生きたのだと、確認できた。 |
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