4 金峯神社 義経隠れ塔 西行庵 吉野水分神社 吉野山 佐藤忠信花矢倉 如意輪寺 勝手神社 舞塚 吉水神社 蔵王堂 黒門 村上義光墓 吉水院 1994/05/06 作成 2003/06/20
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吉野山を歩いてきた。奥には桜が残り人出が多かったが、奥千本へのバスに乗り、1番奥まで行って、下ることにした。10分も掛からずに到着。 |
金峯神社お参り。此の奥に、奥千本がある。謡曲「嵐山」に「金の峯の光も輝く千本の桜」とある。
隠れ塔がある。役行者修行場だ。また、義経がここに隠れ、追っ手から逃れるために屋根を蹴破ったので、「義経隠れ塔、蹴抜けの塔」とも言われている。 |
左大峰の石塔あり。山上ヶ岳まで8時間の表示 。 |
西行庵の西行座像お参り。奥千本のこの地に3年程居たらしい。少し桜が残っていた。
「とくとくと落つる岩間の苔清水 汲みほすほどなき住居かな」 西行 「露とくとく心みに浮世すすがばや」 芭蕉 |
吉野水分(みくまり)神社(子守明神)お参り。水を司る天之水分(あめのみくまり)大神を祀る。"みくまりが"御子守"(みこもり)となまって俗に子守さんと呼ばれている。 |
吉野山の中千本、下千本を見下ろす。 |
義経の家来、継信の弟、佐藤忠信が、丘の上の「花矢倉」で 義経の身代りとなって、一人で踏みとどまり追いすがる敵を切り防いだ。忠信は小高いこの丘に上がって、攻め寄せる僧兵、中でも妙覚院の豪僧、横川の覚範に向かって、矢を雨霰と浴びせかけ、みごと覚範の首を取った。 その後、部下を失い、1人で京へ脱出した。この有様は、謡曲「忠信」に詳しい。 |
如意輪寺お参り。謡曲「楠露(くすのつゆ)」に
、楠木正成は子の正行(まさつら)を桜井駅で河内に帰した。そして、神戸の湊川で死ぬ。
3年後、正行は吉野で天皇に会い、この寺の扉に、鏃(やじり)で、辞世の歌を書き残した。翌年、河内四条畷で死ぬ。 |
勝手神社お参り。謡曲「吉野天人」は、吉野で、花麗しい春を愛でて御代の泰平を祝するが、場所は、昔から舞の地と言われる、この神社らしい。
謡曲「二人静」のワキは勝手の御前に仕える神主である。 |
境内に、舞塚があった。義経と別れた静御前が追っ手に捕まり社前で舞をしいられたと言う塚。
大海人皇子が、吉野に落ちた時、社前で琴を弾いていると天女が舞い降りて皇子を慰め舞(五節舞)を奏した所とも言う。 |
吉水(よしみず)神社お参り。義経主従16人が、5日間
潜伏した吉水院。弁慶力釘と言う、素手で五寸釘を打ち込んだ石があった。門前には、義経馬繋ぎ松があった。
明治に入り、吉水院は、神社に変わり今は吉水神社。 |
金峯山寺蔵王堂(きんぷせんじざおうどう)お参り。金峯山寺は吉野山のシンボルであり、修験道の総本山。役行者(えんのぎょうじゃ)が金峯山寺を開き、その後平安時代に聖宝理源大師(しょうぽうりげんだいし)が蔵王権現像を安置したと言う。 |
黒門。金峯山寺の 「総門」で、言うなれば吉野一山の総門だ。この様な様式の門を高麗門(こうらいもん)と云い、城郭によく用いられ、昔は公家、大名と云えどもこの門から中へ入る時は、槍を伏せ、下馬して通行したと云う格式の高い門との事。 |
村上義光(よしてる)墓をお参り。信濃の武将、村上義光の墓で、不動坂を登った丘の上にある。義光は大塔宮護良(だいとうのみやもりよし)親王の身代わりとして蔵王堂仁大門上で自害した。その首が大塔宮のものではないかとわかって、ここに捨てられていたのを里人が葬ったと伝えられている。 |
1996.4.29 吉水院を訪問 |
日本最古の書院(重文)があり、中には数多くの社宝が展示され、吉野の様々な時代の歴史が残っている。源頼朝に追われた源義経が静御前や弁慶らと身を隠したのがこの吉水院。その時義経と静御前が五日間余りを過ごした部屋が「義経潜居の間」、弁慶が今後のことを思案した部屋が「弁慶思案の間」として残っている。
足利尊氏と争い、京都から吉野に逃れた後醍醐天皇が行宮と定めたのも、この吉水院で、「後醍醐天皇玉座の間」が残されている。後醍醐天皇は退勢挽回を見ることなく、吉野で病を得て亡くなる。 |
豪華絢爛な足跡を残したのが豊臣秀吉。秀吉は総勢5000人を引き連れ、吉水院を本陣として数日間にわたり盛大な花見の宴を催し、その権勢を天下に知らしめた。文禄・慶長の役のさなかのことだった。この時、寄進された屏風、「桜の図」は狩野永徳、「竹の図」は狩野山雪の筆によるもの。 |
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