3 羅城門跡 東寺塔 壬生寺 神泉苑 高倉王邸跡 足袋分銅屋 藤原定家邸址 本能寺 誓願寺 和泉式部墓 冠者殿社  夕顔之墳 鉄輪井 五条大橋 河原院址 元六条御所長講堂 五条天神宮 五条あたり 堀川館址 本願寺 平宗盛公邸址

1993/02/12 作成 2003/05/26

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 京都駅の南、九条通を西に向かうと東寺の西に、羅生門址がある。平安京の南の端の門。能「羅生門」は春の長雨の淋しい頃、頼光等が酒を飲みながら、羅生門には鬼が住み、日暮れると人も通らぬと話し始めると、渡辺綱が聞き咎め、鬼退治に出かけ、鬼を退治し、名をあげる、内容。

 凱旋門だったのに、平安中期頃から寂れ、荒れて、淋しい都の外れとなった。今も、小さな公園の中に、ぽつりと石碑が1つ立っているだけだ。

 羅生門の両隣に西寺と東寺があったが、西寺は今はない。奈良には、東大寺と西大寺があるが、東大寺の方が今は羽振りがいい。東が残るのかな。

 空海の東寺をお参り。今の金堂、東塔は江戸初期の再建。能「羅生門」で、渡辺綱は「たけなる馬にうち乗って、舎人も連れず唯一騎、宿所を出でて二条大宮を南がしらに歩ませけり。春雨の音も頻りに更くる夜の鐘も聞こゆる暁に、東寺の前を行き過ぎて九条おもてにうってでて・・・」とある。

 

 壬生寺お参り。鎌倉時代に壬生寺を大いに興隆した円覚上人が、仏の教えを無言劇にして広めたのが、「壬生大念佛狂言」である。春秋に公開している。能「百万」の子方が成長して円覚上人に成ったとも言われている。

 

 二条城の南に新泉苑。平安京の大内裏の南の沼沢をひらいて苑池で、常に泉が湧いたので、神泉苑と名付けられた。

 能「鷺」はここが舞台。天皇が行幸し、池にいた鷺を捕まえよと仰せになった。役人が捕まえようとすると飛び立ってしまった。「汝聞けや勅諚ぞや」と叫んだら、鷺が降りてきて畏まった。天皇は喜んで、役人と鷺に五位に叙した。それ以来、ゴイサギと言うそうです。

 雨乞いが盛んに行われたとの事。弘法大師もここで祈祷して雨を降らしているとの事。能「玄象」の師長は、神泉苑で、琵琶の秘曲で、雨を降らし、静御前は舞で降らしている。それにしても、京都の真ん中に湿地帯があった。今も「御池」と言う名が残っている。

 

 以仁王は、三条高倉に住んでいたので高倉宮と言う。源三位頼政が密かに尋ねてきて、平家を滅ぼそうとけしかける。令旨がでれば、源氏はみんな馳せ参じると源氏の名を連ねる。平家物語「源氏揃え」である。決起は失敗するが、令旨で動いた頼朝は成功する。その屋敷跡が高倉宮邸址。初音中学校の校門の際にあったように記憶する。

 

 三条の足袋屋分銅屋に足袋を買いに出かけ、作ってくれと言ったら、勿体ないから、既製品にしろと言われた。言われたとおり既製品を買ってきたような気がする。風袋、物の言い様などから、素人と決め付けられたのだろ

 御池通の北側、寺町通り二条上ガルに藤原定家の屋敷があった。今は、「此附近藤原定家京極邸址」の石碑が商家の道に面した所に建っている。

 御池通の南側の織田信長御廟所の本能寺、信長公廟お参り。

 本能寺之変戦死陣没之各霊、115名の名が書いた看板のある合祀墓があった。お参りする。

 本能寺の南、新京極に、誓願寺あり、お参り。能「誓願寺」の舞台。一遍上人が誓願寺に来ると、和泉式部の亡霊が誓願寺の額を六字名号に変えてくれと頼み、後、歌舞菩薩となって歌舞を演ずる 。

 誓願寺の隣に誠心院があり、格子の向こうに和泉式部の宝篋印塔があった。ここにも軒端の梅があった。

 

 四条通りに冠者殿社がある。素戔嗚尊が天照大神と約束した時の「誓い」が祀られている。また、謡曲「正尊」の土佐坊正尊が、義経に起請文を出したその夜、夜討ちを掛けたことから、正尊は大嘘つきの烙印を押され、又、祀られている。そんなことから、「誓文払い(せいもんばらい)」と言う風習があり、商人等が駆け引きでよく嘘を付くので、神罰を恐れ、罪を免れるために参詣する物との事。説明文には、御祭神は素戔嗚尊とあった。

 

 下京区の個人のお宅の中庭に「夕顔の五輪塔」がある。お願いして、写真を1枚撮り、早々に引き払った。家の前に「夕顔の墳」の石碑があった。
 近くに、鉄輪の井あり。通りに「鉄輪井」の石碑があり、その奥に祠があった。謡曲「鉄輪」は、男に捨てられた女が、貴船へ「丑の刻参り」をして、男とその後妻を祈り殺そうとする話。ここは、その女の住んでいた場所との事。毎夜、ここから貴船まで歩いて丑の刻参りをした。凄い執念。
 「今日の五条の橋の上、大の男の弁慶が・・・」の五条大橋。元々は、今の松原橋の位置だったが、秀吉が1本南に移した。通りの名前も変えちゃった。従って、五条天神は松原通りの元の位置にある。
 枳殻邸の近く、六条河原に、「源融河原院址」の石碑。陸奥の千賀の浜塩竃の風光を移した豪邸の址だ。枳殻邸を含む、広大な敷地で、鴨川の水を引き入れ、難波から、海水を毎日運び、塩を作ったそうだ。籬ヶ島(まがきがしま 塩竃の雄島 歌枕)も造り、明治まで、その 島に生えていた木々の森が残り、この碑がある榎はその名残だそうだ。
 六条通りの鴨川近く、平家が都落ちしてから、後白河法皇が移り住んだ「元六条御所長講堂」を尋ねた。法皇は大原寂光院御幸の時もここから出発した。謡曲「大原御幸」の話の出発点 。
 松原通の五条天神宮お参り。謡曲に「五条あたり」と詠われる、五条堀川の交差点 、こちらは今の五条。
 西本願寺の北に、謡曲「正尊」で、土佐坊正尊が義経を襲った堀川館があ る。今、館内の井戸の位置に「佐女牛井之址(さめがいのい)」の石碑がある。
 西本願寺お参り。東本願寺お参り。誰が東西に分けたのだろう。
 京都駅の新幹線コンコースに、八条院、八条第跡の説明がある。

 又、平家の公邸も八条に、私邸は六波羅にあった。謡曲「熊野」に「河原おもてを過ぎ行けば、急ぐ心の程もなく、車大路や六波羅の地蔵堂よと伏し拝み観音も同座あり・・・」とあり、八条の公邸から清水寺に向かった。

 平安末期から鎌倉時代に、有力者の建物が並び栄えた地区であったが、室町の応仁の乱以降は、農地となってしまった。

 

 

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