6 金礼宮 欣浄寺 城南宮 安楽寿院 仁明天皇陵 藤森神社 伏見稲荷 俊成墓 木曽義仲首塚 双林寺 長楽寺 平敦盛供養塔 熊谷直実供養塔 法成寺址 1993/03/30 作成 2003/06/01
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伏見区鷹匠町の金札宮をお参り。謡曲「金札」の地。「金札」は「桓武天皇が平安遷都の時、伏見に神殿を建てるについて、勅使が伏見に行くと、天津太玉神が金札を降らして天降り、悪魔降伏国土守護を誓う 」、めでたいもの。 |
伏見区西桝屋町の欣浄寺をお参り。ここは 「通小町」の深草少将の住居跡だそうだ。ここから山科の随心院のまで、百夜通いをした。小町少将供養塔、小町通いの道、小町化粧の池があった。 99夜通ったのに袖にした小町の跡が残っているのは、相思相愛か、後の人が追加したか? |
城南宮お参り。白河法皇の鳥羽離宮跡である。鴨川と桂川の合流点の湿地帯の高台、平安門の真南で、交通の要衝だった。南北800m、東西600mの広さだった。離宮は、北殿(勝光明院を付設)・南殿(証金剛院を付設)・馬場殿(城南宮を付設)・田中殿(金剛心院を付設)・東殿および泉殿(安楽寿院・成菩提院を付設)・中島という6つの大きな部分から成っていたそうだ。南殿は鳥羽殿と言い、西行が北面の武士として仕えた。室町の応仁の乱で荒れ果てた 。 |
竹田の鳥羽離宮東殿跡、安楽寿院お参り。中には入れなかった。 事前にお願いすれば、阿弥陀如来をお参り出来ると聞いている。 |
深草東伊達町の仁明天皇陵お参り。謡曲「杜若」に「仁明天皇の御宇かとよ」とあり、業平の元服は許されて 、御所の殿中で行われた。深草帝と言われた。 |
深草鳥居崎町の藤森神社お参り。謡曲「融」に「今こそ秋よ、名にし負う春は花見し藤森・・・」とあり、古い神さんだ。紀貫之の紀氏の祖を祀る所。 |
伏見稲荷お参り。謡曲「小鍛冶」の後シテが、稲荷明神であり、小鍛治と、めでたい刀を打ちあげ、稲荷山に帰る。 |
東福寺の藤原俊成墓をお参り。先回探したが見つからなかった。「五条之三位 志ゆんせい卿おはかみち 冷泉宗・・」の道標あり。 |
東山高台寺への参道右側旅館の隅に、「朝日将軍木曽義仲塚」の石碑と五輪塔があった。市の説明には、巴が首を葬らせた、又、右の五輪塔(延喜式八坂墓)は、光孝天皇の外祖母藤原数子の墓、とあった。義仲は頼朝に負けたので、木曽義仲に成ったが、勝っていれば、源義仲、伊豆頼朝になっていたはず。 |
東山の西行庵前の双林寺お参り。最澄を開基。天台宗のお寺。円山公園に土地を取られ、寂れたが、秀吉が花見をしたり、西行、歌人頓阿(とんあ)が住み、俊寛の仲間、平康頼が草庵を結んだ。
左から頓阿、康頼、西行の墓と言う。 |
長楽寺お参り。清盛の娘、建礼門院が、子の安徳天皇を失い、最初に入ったお寺。この後、大原に移っている。塔は、建礼門院が御髪をおろされた名残の御髪塔(ごはっとう)で ある。 |
建礼門院御尊像 松久朋琳作、大原御幸 白本未知作、 庭園 |
黒谷さんの敦盛の供養塔をお参り出来た。敦盛の供養塔は、道の際に。直実の供養塔は、少し奥にあった。共に、真新しい卒塔婆が建ててあり、敦盛、蓮生法師の字が入っていた。 |
御所の東、荒神口通りの学校の塀の中に、「法成寺(ほうじょうじ)址」の石碑があった。謡曲「俊寛」で、「あはれ都にありし時は法勝寺法成寺唯喜見城の春の花今はいつしか引きかえて・・・」と鬼界ヶ島で、俊寛は嘆き悲しむ。 |
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