12 静岡 三島大社 相生松 腰掛石 旗上げの碑 間眠神社 国分寺塔址 仁田忠常墓 山木兼隆址 蛭ヶ小島 顔成就院

1993/03/07 作成 2003/05/31

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 三島周辺の謡蹟を尋ねてきた。三島大社をお参り。謡曲「春栄」の地だ。兄弟愛を扱ったもの。宇治橋の義仲との合戦で生け捕りにした春栄を、兄が共に死のうと尋ねてくるが、逢おうとしない。その内、 春栄を殺そうとした時鎌倉から早馬が来た。赦免の知らせだった。と言う、めでたしめでたしの話である。
 参道際に「相生松」がある。頼朝が百日の丑の刻詣りをした時、安達盛長がここで警護した。また、頼朝、北条政子の腰掛け石があり、旗上げの碑があった。頼朝一色の神社。鎌倉以降は武士が深く崇敬した。
 間眠(まどろみ)神社お参り。三島大社丑の刻詣りの時、ここでよく仮眠した。それで間眠神社と言われるようになったそうだ。
 伊豆国府址は三島市芝本町辺りにあったと言うが、今は何も無し。国分寺 お参り。本堂前に「史跡 伊豆国分寺塔址」の石碑があった。
 函南町の仁田四郎忠常墓をお参り。中央が忠常、右忠時、左忠正の墓である。謡曲「夜討曽我」は仁田忠常が曽我十郎を討ち取る話である。

 曾我兄弟は偉いと昔から評判がいいが、兄はその場で殺され、弟も捕まって殺されている。本当の目的が他にあったのではないかと思う。

 伊豆の平家の目代 (もくだい)山木兼隆は、北条政子と婚礼の夜、政子に逃げられる。政子は頼朝の所へ行った。又、頼朝旗上げの最初の犠牲者だ。

 その兼隆の館址が韮山町韮山の石積みの敷地にあった。兼隆館址と石碑に刻まれていた。

 平家の時代に、平家の流人の頼朝が、政子と駆け落ちしてそのあげく、目代を旗上げの血祭りに上げる。とんでも無い事がよくできたものだ。よっぽど、地元の武士団を掌握していた事になる。もっとも、直ぐ石橋山で負けて房総に逃げるが。

 韮山町の蛭ヶ小島。昔は、河原の中の小島だった。頼朝の20年の流人としての生活の地だった。
 同じく、願成就院址あり 。

 別の場所に、今の願成就院がある。政子の父、北條時政の墓がある。この時政こそ鎌倉幕府の立役者だと思う。よく頼朝を盛り立てた 、又は、武士の権益を守るため、頼朝を最大限利用した。

 

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