15 兵庫 腕塚神社 忠度塚 両馬川旧跡 柿本神社 尾上神社 高砂神社 室津 賀茂神社 御津町民俗館

1996/07/26 作成 2003/07/18

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 明石市の腕塚神社お参り。山陽電鉄人丸前駅から鉄道に沿って西に少し行くと小さな神社がある。一ノ谷の合戦に敗れた平忠度は海岸沿いに西へ逃れた。しかし武蔵國住人岡部六弥太忠澄に明石の両馬川で追いつかれ、「六弥太やがてむずと組み、両馬が間にどうと落ち、かの六弥太を取っておさえ既に刀に手をかけしに、六弥太の郎等、御後ろより立ち回り、上にまします忠度の右の腕を打ち落とせば・・・」と謡曲「忠度」にもある。ここは元、右手塚(うでつか)町と言ったそうだ。
 忠度塚お参り。忠盛を埋めた所と言う。平忠度は、清盛の末弟で、歌を良くした。都落ちの時、京に戻り、藤原俊成に詠草を託した。 近くの道際に馬塚もあった。
 柿本神社お参り。土地の人は人丸神社と言っている。人丸神社や天文台のある山が人丸山と言う事を見ると、初めは人丸神社だったのだろう。柿本人麿の神社。人麿は藤原不比等と対立し、殺された疑いがあるらしい。全国に、人丸神社、柿本神社が多いのも、不慮の死の証拠かもしれない。明石 の名は謡曲10番ほどに出てくる。人麿歌碑があった。

  「あまさかる ひなのながちゆ 恋くれば 明石の門より やまとしまみゆ」 人麿 

 人丸山は、東経135度の日本標準子午線が通っていて、明石天文科学館があったが、休日だった。山陽電鉄ガード下に両馬川旧跡の石碑があった。
 加古川市尾上の尾上神社お参り。「尾上の鐘」が建物の中に あり、「片枝の松」、「尾上の松」が堂々と腕を伸ばしていた。謡曲「高砂」に謡われている。
 高砂市の高砂神社お参り。謡曲「高砂」の高砂神社。加古川の河口にあるが、今は、町の中。
 3代目の「相生の松」が鞘堂に入っていた。幹の途中で、雄、雌に別れていたそうだ。5代目は枝を広げていた。尉姥(じょううば)神社があった。
 能舞台もあり、大きなイブキの木があった。
 山陽電鉄網干駅からバスで、兵庫県の西の端に、御津町室津に出かけた。三方を山に囲まれた天然の良港で、高僧行基は摂津と播磨の両国のなかで海上交通の良港として五つの港を定めたと言う。その摂播五泊の1つだ。大阪城の石垣の石がここから運ばれた。朝鮮通信使も必ず寄った港とのこと。ここから東には良い港が無かった。遊女も沢山居た。

 謡曲「室君」がある。室の明神には、天下泰平の時には、遊女を船に乗せて舞い奏でる神事がある。今も天下泰平なので、神職がこれを行わせ、沢山の遊女が舞、奏でた。すると、室明神として垂迹した佛の本地韋駄提希夫人(すいじゃくしたほとけのほんじいだいけぷにん)も現れて舞楽を奏する。すじである。4番目物としている。(本地垂迹説:日本の神は、本地である佛が姿を変えて、迹(あと)を垂(た)たものとする説。平安時代からの神仏同体説)

 賀茂神社が港を囲むように突き出た小山の上にあった。見晴らしの良い場所だ。謡曲「賀茂」のワキは室明神の神職で、京都賀茂神社に来て、小生神社の謂われを寿ぐすじ。本殿には、能の奉納看板が掲げてあった。古い神社という感じだった。
  室津民俗館を拝見。室津の町並みは、江戸参勤交代の頃が最も栄え、当時の面影が今に残っています。海産物問屋の豪商「魚屋」の跡で、老朽化した建物の保存を目的として資料館となり、昭和63年3月に県の重要文化財に指定された との事。
 

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