23 岡山 藤戸

2001/05/02 〜 2001/05/02

能舞台の名所・旧跡へ    


 

1 岡山 藤戸                               2001/05/02

 

 高松、5月2日、雨。お遍路の出発時間に、ホテルを出た。朝食なし。高松城址まで琴電に乗る。

 朝早いのに、すでに、開園していた。朝の市民の散歩のため、早い開園のようです。今日は雨で、人がいない。切符売りのおばさんとしばらく話をする。

 お堀の水が、海水だった。干満のため水位が変わる。海の魚が入っているとの事。誰もいない園内を1廻り、きれいに庭の手入れが行き届いていた。

 高松駅周辺は、近々、再開発され、港、JR,琴電の集まった、四国の入口になるとの事。高層ビルが建っていた。勘定が合うのかなと思う。

 駅で、時間表を見て、岡山行きは、マリンライナー(快速電車)のみと、初めて知る。各駅停車は四国内行きのみ。ラッシュアワーで、サラリーマンがたくさん駅を出て行く。今日は仕事のある日である。茶屋町までの切符を買う。

 茶屋町の駅で、路線バスで藤戸寺へ行けないか聞くが、うんと数が少ないようだった。やむを得ずタクシーとする。女運転手さんで愛想がいい。藤戸寺へと頼む。藤戸の案内地図などないかと尋ねると、藤戸のパンフレットがサーと出てきて、いろいろ話をしてくれた。

 時々、私のようなものがいるようです。

 藤戸寺を参り。真言宗のお寺さん。石造5重塔があった。鎌倉時代作の源平合戦の供養塔とのこと。写真を撮ったつもりが、現像してみると無かった。境内の休憩所に泊りの、西国廻りのお遍路さんがいた。まだ、寝込んでいた。

 お寺の前に、盛綱橋があった。今はコンクリート橋であるが、江戸時代の橋の大きな敷石が、藤戸寺の藤棚の下の腰掛になっていた。

 橋の上に盛綱の像があった。これも写真が無かった。経ヶ島をお参り。頂上に古い石の宝篋印塔、石の塔婆があった。

 平地は、人家と田んぼであるが、源平時代は、平地は海であった、海が川に沿って内陸部に入っていた。お寺さんも、経ヶ島も高台。遍照院を廻って、浮州岩跡へ。

 橋のたもとの本家饅頭家で、藤戸饅頭を買う。相変わらず、雨。膝から下、びしょ濡れ。

 「浮洲の岩の上に我を連れて行く水の、氷のごとくなる刀を抜いて、胸の辺りを刺し通し、指し通おさるれば、肝魂も消え消え・・・」の浮洲岩は、京都三宝院の庭にある。秀吉が移したらしい。石碑が建っていた。江戸時代、干拓した時、立てたとの事。

 誓紙の井戸。盛綱がここを拝領して入領したとき、地元の人々に忠誠を誓わせ、紙に書いた墨の水を汲んだ井戸との事。タクシーの運転手さんに貰ったパンフレットの地図の位置が違っていて、探し当てるに手間取った。何回も、地元の人に聞くと、奥さんが、見かねて案内してくれた。

 私の家も、昔から、佐々木だが、古いものは、何も残っていないと言って見えた。昔からの大地主さんのように見えた。

 先陣庵。西明院の中にあった。平氏の陣営のあった所。ここも盛綱が供養のために、建てたお寺さん。

 謡曲「藤戸」では、老婆が佐々木盛綱に、恨みつらみを言い責める。盛綱は「ああ音高し何と何と」(声が高い。何と言うのだ)と、おろおろするのだが、平家物語は、もれると困るから殺したことと武功を書いてあるだけ。作者の姿勢が際立って差がある。

 鞭木跡。盛綱が、ここで馬を休め、持っていた鞭をここに刺したが、何時の間にか巨木になった。

 笹無山。老婆が、佐々木と聞けば、笹まで憎いとむしり取り、呪った。その後、この山(島?)には、笹は生えなかったそうです。

 御崎神社。盛綱が出陣に際し、戦勝を祈った社。瓦等に佐々木の四ツ目菱の紋が残っているとの事です。

 乗り出し岩。源氏の陣地。南の平氏の陣、先陣庵まで、2km程度あり、所々、高い処があるが、平地部分は海だった。船の無い源氏は、相当あせった事だろう。

 

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