13 埼玉 栃木 茨城 古隅田川 静御前 鉢木 日光 殺生石 遊行柳 黒羽 殺生石の野干 芭蕉の館 雲嚴寺 西行桜 与一墓 鹿島神社 櫻川 2000/07/25 〜 2000/07/28
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1 埼玉 栃木 茨城 古隅田川 静御前 鉢木 2000/07/25
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浅草の木母寺付近よりも、ここが、業平が都鳥を詠んだ場所であり、謡曲の場所と思う。
昔は人の作った堤防など無しである。知立八つ橋で「その沢のほとりの木の陰におりいて、乾飯食いけり」の場所もここと同じ様な場所であった。 日光街道沿い、武蔵杉戸町の永福寺に「西行法師見返りの松」がある。70近い年で、親類の平泉に、金を貰いに行ったときの物との説明があった。立派な松があった。 春日部の各謡蹟、見返りの松とも、探し当てるのに、極めて時間を要した。 武蔵栗橋に静御前墓あり。駅前の町中にあり、車を道に置き、急ぎお参りする。福島郡山にも墓あり、こちらが終焉の地とされているそうです。静は奥州へ向かったのですね。我が日本国は、当時も女の歩きが可能だった。 |
下総の国古河の光了寺をお参り。ここには静御前の舞衣があるそうです。栗橋の墓も管理しているとのこと。
下総総和町に思案橋あり。立派なコンクリートの橋であった。説明看板に、静がここで義経が死んだことを知って、行こうか帰ろうかと思案した、結局、義経の叔父の高柳寺(栗橋の墓、古河の光了寺が栗橋にあり、高柳寺と言っていた)に戻り、悲しみのために22才で生涯を終えた。とあった。 |
下野葛生町願成寺に「鉢木」の佐野源左衛門常世の墓を尋ねる。隣に佐野市もあり、また、常世の屋敷跡も百数十m四方との説明あり。裕福な人になったと言うことでした。
山の中の田舎と言う感じ。当時の稲作は、谷間が多かったんだなと思う。 すっかり時間を費やし、予定した芭蕉の「室の八島」は、飛ばしとする。日光入り口の今市に泊まる。 |
2 埼玉 栃木 茨城 日光 殺生石 遊行柳 2000/07/26
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今日も雨。杉並木が沢山残っている日光街道を走る。始めてのいろは坂を登る。中禅寺湖が見えた。外へ出ると寒い。戦場ヶ原まで走る。朝早いので行き交う車無し。霧の晴れ間に戦場ヶ原と中善寺湖を見て、華厳の滝に戻る。
エレベターで降りると、目の前に滝が丸見え。霧雨で、ぼんやりしか見えず、ただ、大きいのに驚く。高さ100mとのこと。滝壺にも近寄れないようになっているらしい。遠くから那智の滝を見たことがあったが、その時は大きな滝と感じなかった。 芭蕉の歩いたところを、今回、車で。 |
駐車場から15分の山道を登る。「滝の裏より見ればうらみの滝と申し伝え侍るなり」の裏見の滝を正面から見る、裏には入れなかった。水量の少ない、高さ50mの滝。途中2組の人に会う。
含満ヶ淵の入り口が判らず、東照宮の下の駐車場に入れ、歩きで行く事にする。田母沢のご用邸を過ぎて人に聞くと、来過ぎだ戻れ、ご用邸の裏だが、向こう岸に行けとのこと。 慈雲寺と言う寺あり。本堂は水に流れたので小さい本堂の説明あり。水量が多く見応えある淵。ここにも弘法大師の投げ筆あり。2時間ほど費やす。 東照宮他を拝観、お参りする。テレビで見る建物を見て歩く。すっかり、時間を費やした。ここもゆっくり歩いて見るところだ。 |
予定を変更して、殺生石へ。那須の山を登る。温泉神社前に車を置き、那須与一が奉納した鳥居を潜り、神社をお参り。芭蕉はここで与一が扇の的を射った矢を拝観しているが、今はなし。
「湯をむすぶ誓いも同じ岩清水」芭蕉の碑あり。 直ぐ裏に「殺生石」あり。中国に女に化ける狐がいたが日本に渡来し、玉藻の前と名乗ったが、ばれてここに逃げ、この殺生石に化け、ここでも悪さをした。 「いしの香やなつ草あかく露あつし」芭蕉碑あり。 |
あわただしく芦野に向かう。「遊行柳」。清水流るる柳を、芭蕉は西行を偲んでここに来て、今日此の柳のかげにこそ立ちより侍りつれ。休憩所や通り道が整備されていたが、誰もいない。相変わらず雨である。
「道のべに清水流るる柳蔭しばしとてこそ立ちとまりつれ」西行、「田一枚植えて立ち去る柳かな」芭蕉、「柳散涸石処処」蕪村の碑あり。何で柳かやはり判らない。 墾田私有制度で荘園が出来て律令制が潰れ、武士がだんだん土地を横取りして、それぞれその地に住み着いた。この芦野氏もその1人である。 西行さんは土地を荘園領主に献上した時代の人。崇徳院の保元の乱ころから平氏が出て、源氏が出て、足利氏が代わり、武士の時代となり戦国となる。土地私有制の長い歴史の結果の今を、私が今、見ている。なんて事を考えた。 今日は、黒磯に泊まる。 |
3 埼玉 栃木 茨城 黒羽 殺生石の野干 芭蕉の館 雲嚴寺 西行桜 与一墓 2000/07/27
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「那須の黒羽と言う所に知る人在れば・・馬が止まる所まで馬を借りて行くが、馬の跡したいて走るひとりは小姫にて「かさね」と言う」の黒羽に向かう。
黒羽の寒井に「佐藤継信、忠信の墓」を尋ねる。那珂川の畔、県道際にあったが草ぼうぼうであった。 |
蜂巣篠原に「狐塚」を尋ねる。土地の人に尋ねるが判らない。諦めかけたとき、廃品回収の子供達に会い、引率のおじさん(多分、先生らしい)に聞いたら、大田原との境の県道際にありと教えて貰う。何度も通った所にあった。ただし、50cm位の小さい石碑だった。背の高さと思っていたので見逃した。
狐を祭った玉藻前稲荷神社をお参り。狐が退治された池、鏡が池あり。「秣(まぐさ)負う人を枝折りの夏野哉」芭蕉、「もののふの矢並つくろふ小手の上にあられたばしる那須の篠原」源実朝の歌碑あり。 「犬追物の馬場」は「野干は犬に似たれば犬にて稽古あるべしとて百日犬をぞ射たりけるこれ犬追物の始めとかや」と 謡曲「殺生石」にある。芭蕉もこれを確認したかったようだと或本で読んだ。 西教寺には「かさねとは八重撫子の名なるべし」芭蕉の碑あり。 芭蕉は尋ねたようであるが、今は何もない光明寺跡をお参り。 |
与一が的を射るとき、我が国八幡大菩薩と祈った大田原の那須神社(金丸八幡)をお参り。芭蕉も参っている。
大雄寺をお参り。変わった仏さんが沢山おわした。門前に「行春や鳥啼魚の目に泪」芭蕉の碑があった。 |
芭蕉の館を訪問。前庭に馬に乗った芭蕉と曽良の像が立つ。館内を拝見する。数人の先客がいた。大雄寺前で昼食を取る。
雲嚴寺へ大部のみちのりを走る。 「寺は、単なる観光のためのものでない。騒ぐな。他に迷惑を掛けるな。観光案内はしない。聖域の逍遙をお楽しみ下さい」の高札ある禅寺。「木啄も庵はやぶらず夏木立」ととりあへぬ一句を柱に残し侍りし、芭蕉。と「竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば」仏頂和尚の歌が一枚の石に刻まれていた。 |
湯津上村の法輪寺に西行桜あり。樹齢約800年の垂れ桜があった。小さい看板が1つあった。
大田原の玄性寺、那須与一の墓を詣でる。那須一族の墓があった。 今日の謡蹟訪問を終わる。これから大洗の簡保の宿まで。 |
途中、袋田の滝に寄る。120mの4段の滝。ここも滝の前までトンネルが出来ており簡単に見られるようになっている。見やすいが何か不自然。120mでも4段ありで奥行きがあり、堂々としているが、華厳の滝のように迫るような感じはない。 |
4 埼玉 栃木 茨城 鹿島神社 櫻川 2000/07/28
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鹿島神社へ急ぐ。
謡曲「放生川」「右近」のワキは鹿島の神職である。万葉集などに詠われ、また、鹿島立ちと言う言葉がある、古い歴史のある神社。
桜川村の信太の浮島、霞ヶ浦を見て、筑波山に向かうが、一向に前に進まない。渋滞である。高速道路は南北、我は西行き。何ともしようがない。筑波山登りは止める。岩瀬町の櫻川へ向かう。 謡曲「櫻川」の地である。昔から吉野と並ぶ桜の名所で、都にも知られていたようです。 真宗高田派の専修寺のお参りも予定したがこれも止め。室の八島も止め。 謡曲「殺生石」のワキ玄翁和尚の墓が結城市安穏寺の近くにありとのことで探すも見つけられなかった。 午後5時前、予定通り、車を返す。大宮市内渋滞でインターから1時間以上費やす。 1000km弱の走行距離であった。 今回、少し無理な行程であった。埼玉、千葉に後少し未踏査分あり。 |
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