19 四国 屋島 血の池 面向不背の珠碑 相引川 赤牛崎 佐藤継信墓 総門址 射落畑 義経弓流しの場 菊王丸墓 安徳天皇社 佐藤継信顕彰碑と墓 錣引きの地 駒立岩 祈り岩 海士墓 小宰相局墓

1999/11/21〜1999/11/25 作成 2003/07/15

能舞台の名所・旧跡へ


 

 四国遍路で謡蹟を幾つか尋ねてきた。お遍路の中で相当紹介していたつもりでしたが、ほとんど記載がありませんでした。改めて、まとめる事にしました。遅くなり、ごめんなさい。
 香川県高松市の屋島。今は 本土と一緒になってしまったが、元々島だった。写真の奥に見える、頂上が平らな屋根のような山が屋島。
 歩き遍路の巡回のため、歩いて登り、歩いて下る。精々 、歩く距離は、30km/日で、平均2,3寺/日。屋島の頂上、平坦な地にある屋島寺の山門。
 屋島寺お参り。屋島寺草創の折、弘法大師がお経と共に宝珠を収め周囲を池にした。瑠璃宝(るりほう)の池 と言ったが、源平合戦の折、義経はじめ源氏軍が血刀を洗った処、池は真っ赤に染まったことから、「血の池」と言われた。
 境内に、面向不背の珠碑があった。謡曲「海士」で「玉中に釈迦の像まします。何方より拝み奉れども同じ面なるによって、面を向ふに背かずと書いて面向不背の珠と申し候」とある。
11/22 源平合戦史跡を訪ねた。相引(あいびき)川は海であったが、埋め立てが進み川のようになった。潮の満ち引きで川のように 、相引くように水が動く。この川でよく見れば、今も屋島は島である。
 屋島は島だったので、 水軍のない源氏は容易に渡れなかった。義経は、偶々、高松方面から赤牛が渡れると聞いて、浅瀬がある事を知り、屋島の平家を攻める事が出来た。それからこの地を赤牛崎(あかばざき)と言うようになったそうだ。
 佐藤継信墓お参り。屋島で義経の身代わりに死ぬ。その遺骸を葬った所と言う。昭和6年、継信30世の孫、山形県の佐藤氏が大改修したそうだ。

  義経は、継信を懇ろに葬り、後白河法王から貰って、一ノ谷で駆け下りた秘蔵の名馬、太夫黒(たゆうぐろ)をお寺に寄進した。死んだ後、継信の隣に埋葬 された。

 総門址は平教経が小舟に乗って汀に押し寄せ、義経と対決した平家の海辺の構えで、最初に言葉争いの始まった所。「言葉争い事終わり。兵船1艘漕ぎ寄せて波打ち際に降りたって・・・」と悪七兵衛景清と三保谷四郎の有名な錣(しころ)引きが始まる。
 射落畑(いおちはた)は、佐藤継信が義経の身代わりになり、平教経の強弓に射落とされた所である。
 義経弓流しの場。今は完全な陸地だが、当時は海岸。錣引きが終わり、源氏が攻めると平家は海に逃れた。義経は海に 乗り入れて戦ったが、弓を落とした。部下が止せと言って諫めたが、義経は、拾い戻してくる。後で、部下が諫めると、「源氏の大将がこんな弱い弓を持っていたのか」と笑われるからと言ったと言う。 義経はは強弓が引けなかった。 謡曲「屋島」に詳しい。

 菊王丸の墓お参り。 平教経の強弓で、落馬した佐藤継信の首を取らんとして、教経の召士菊王丸と言う若者、走り出て駆け寄った所、継信の弟忠信が兄の首取らせじとこれを射倒した。能登守教経は直ちに菊王丸を己の船に投げ入れたが、間もなく息絶えたので、これを哀れんでこの地に葬った。 菊王丸は、謡曲「屋島」、「摂待」に出てくる。

 安徳天皇社お参り。安徳天皇行宮址 。前は屋島壇ノ浦の入り江、後ろは屋島の山地の利を得た地。宗盛は、源氏が海から攻めてきた時は、壇ノ浦で殲滅する予定だった。その頃、義経は陸地から屋島を攻めて来た。宗盛はそれを知らなかった。
 佐藤継信顕彰碑と墓お参り。ここは四国遍路が、屋島寺から急坂を下って八栗寺へ抜ける遍路道、佐藤継信の忠死をひろく世間に知らそうと、 高松藩主松平頼重が、儒臣岡部玄拙斎に碑文を作らしめて、顕彰碑を建立させたもの。傍らに墓もあった。
 平悪七兵衛景清の錣引きの地。今は舗装道路である。錣 引きは、謡曲「屋島」、「景清」、に出てくる。 
 「駒立岩」は、那須与一が 、「祈り岩」で神明に祈願して、ここ「駒立岩」で舟の扇をねらい射落とした。水の中に沈んでいるが干潮になれば、顔を出す。この岩の周りは、住宅地。
 「祈り岩」は、「駒立岩」から数十m離れた、道の際に石碑 のみがあった。
 志度寺お参り。海士の墓がある。藤原不比等は 、唐の高宗から送られた3つの宝の内、面向不背の珠が龍神に奪われたので、取り返しに志度の浦に来た。そこで、海士と仲良くなり、房前が生まれた。海士は珠の事を聞いて、海に潜り、珠を取り戻すが、傷つき死んでしまう。後年、房前は大臣となり、志度の浦に来て石塔を建て母親を供養したと言う。

 「盆に来て 海士をとむらふ 心あり」  高浜年尾

1999.11.25 鳴門土佐泊の小宰相局の墓をお参り。

 小鳴門橋を渡り大毛島に入り右に曲がった、海を見下ろす岡の上にあった。小宰相局は平家の大将平通盛の恋女房。一族とともに屋島へ落ちていく道すがら、愛する夫が源氏のため一の谷において討ち死にしたと聞き、恋しさに耐えかねて海に身を投げ、あたら19の春を散らしたと言う。

 謡曲「通盛」は、鳴門で、一夏(いちげ 夏90日間、こもって修行する事)の僧が、読経していると、沖の舟が寄ってきたので、ここで戦死した人を尋ねると、小宰相局が夫通盛が死んだ事を聞き入水した事を話し、波間に消え失せる。僧が回向していると、2人の霊が現れ、合戦の有様を語り、法力によって成仏得脱した事を喜ぶ。と言うすじ。

 

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