22 野宮神社 二尊院 時雨亭 祇王寺 念仏寺 清涼寺 宝筐寺 真珠庵

15km     2001/11/03

能舞台の名所・旧跡へ    


 

 一休さんの真珠庵の一般公開に合わせ、久しぶりに嵯峨野を歩いて来た。終日雨。

 名古屋から京都までと同料金である嵯峨嵐山までの乗車券を買って、米原で新幹線を降り、東海道に乗り換え、京都で山陰線に乗り換え、9時少し過ぎに嵯峨嵐山駅に着いた。

 野宮竹と言われる真竹の林を抜けて、野宮神社に。黒木の鳥居、小柴垣、赤い社殿。さすがに人が多く、人力車が繁盛しているようだ。

 謡曲「野宮」の舞台です。諸国一見のの僧が「これなる森を人に尋ねて候へば、野の宮の旧跡とかや申し候ほどに・・・」と尋ねて来ると、長月7日の光源氏が訪れた日を忘れかね、六条の御息所がさ迷い出てくる。出てきた理由など話をして、鳥居の二柱に立ち隠れて失せにけり、と消えてしまう。その夜、回向していると六条の御息所が車に乗って出てきて、賀茂の祭り で正妻である葵上との、車争いをして辱められた妄執を晴らしてくれと頼み、辺りの風情を懐かしみ、又、車に乗り、立ち去る。

 秋によく謡われる曲です。

 落柿舎を外から拝見する。この前の畑は、市の所有地で建物を建てないことになっていると、人力車のお兄さんが説明していた。

 もう1つの目的が、時雨亭跡を見ること。

 二尊院。総門の向こうの紅葉はこれから。雨に濡れてきれい。本堂、法然上人御廟をお参りして、時雨亭跡の看板に従って、山に登る。しばらく歩くと、林の中に、石積みの残る平たい所に出た。時雨亭跡の小さい看板あり。いささか感じが異なる。映画の影響かな、と思う。

 お公家さんの墓所の道を下り、最後は、阪妻のお墓をお参り。

 定家の嵯峨山荘と言われる厭離庵を 拝見。拝観謝絶の看板あり。公開の時期もあるようだ。閉ざした門を見る。定家、阿仏尼の御主人の墓があるようだ。公開日を確かめて又、来よう。

 (追記)常寂光寺にも時雨亭の跡があるようです。厭離庵を含めて、もう一度来よう。

 

 祇王寺。私の観世流では、 謡曲「仏原」で祇王を扱っているが、他流には、謡曲「祇王」がある。清盛は、祇王を大事にしていたが、祇王がようやく段取りして、清盛に逢わせた仏御前を見ると、途端に、祇王を捨ててしまう。そのお寺さんである。その後、仏御前もここに来て一緒に暮らすようです。

 平家物語の原文を読むと、祇王を紙くずを捨てるように簡単に捨ててしまう有様が、描かれている。

 捨てられた親子の住まいらしい、小さな草庵のお寺さん。いつ見ても良い庭である。好みのお寺さんです。紅葉はこれからである。

 化野念仏寺。葬送の地のお寺さん。清水寺の南の葬送の地、鳥辺山。共に葬送の地で、同じような雰囲気の地である。昔は、風葬であったようです。
 寂庵を訪ねたが、1日、15日以外は門を締めていた。

 謡曲「百万」の嵯峨釈迦堂。特別公開の霊宝館を拝見。源氏物語のモデルと言われる源融のお墓をお参り。 源融は、枳殼邸の近くに河原院を造り、奥羽の塩釜を真似て、海水を湛えた池を作り、潮を焼いたそうです。河原院の石碑が町の中に残っています。

 平敦盛を殺した源氏の武将、熊谷次郎直実、蓮生法師の請願状があった。敦盛の首を掻き切る時、自分の息子と同年配の若者だったので躊躇するが、見方の武者が集まってきたので、涙を流して、首掻き切った。 謡曲「敦盛」を思い出した。

 宝筐院(ほうきょういん)拝観。楠正成の息子正行(まさつら)、足利義詮(よしあきら)の墓所をお参り。紅葉が綺麗そうだ。

 一休さんの大徳寺真珠庵へ。京都は東西の移動がし難い。滅多に乗らないタクシーに乗る。よく喋る運転手さんで、見所を教えてくれる。

 大徳寺の山門の前に俊寛と共に、鬼界が島に流され、翌年赦免された、平康頼の供養塔がある。なぜここにあるかは判らない。
 真直ぐ奥に歩くと真珠庵がある。いつも閉まっている門が今日は開いている。中に入ると荷物を預けるよう言われた。壁など傷を付けないようにする為との事。

 方丈が本堂。方丈は南に3室、北に3室の構造と説明が在った。南の中央の部屋に一休さんの頭髪を植えた一休さんの木像と遺偈があった。

 「須弥南畔・・・・・」の「南」の字が小さい例の遺偈である。一休寺の遺偈より、はっきりした字である。重要文化財との説明があった。

 

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