1 東大寺 俊乗堂 転害門 正倉院 知足院 奈良阪 般若寺 戒壇院 氷室神社 飛火野 春日大社 興福寺 采女神社 百万の墓

1994/03/31 作成 2003/06/13

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 東大寺大仏殿お参り。天平時代の聖武天皇が創らせた大仏である。平安末期には、平重衡が焼いてしまった。謡曲「千手」で平重衡は「又、思はずも父命により仏像を亡ぼし人寿を断ちし、現当の罪を果たすこと、前業より猶恥ずかしうこそ候へ」と言っている。

 翌年には、俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)等が再建に動き出し、15年後、征夷大将軍頼朝が上洛して、東大寺の大仏供養が行われた。謡曲「大仏供養」がある。

 謡曲「安宅」では、陸奥に逃げる義経一行が、安宅で弁慶が勧進帳を「・・・かほどの霊場の絶えなん事を悲しみて、俊乗坊重源諸国を勧進す。・・・」と、高らかにこそ読み上げ ている。

 東大寺の転害門(てんがいもん)、またの名を景清門(かげきよもん)を尋ねた。ここから西に延びる道が、平城京の一条大路。法華寺までを佐保路(さほじ)、法華寺から西大寺までを佐紀路(さきじ)と言う。謡曲「大仏供養」は平景清が頼朝をねらったが、ばれて若武者を1人切って逃げてしまうすじ。この門に隠れたので、景清門とも言う。
 俊乗堂お参り。大仏殿と三月堂の中間辺りにある。大仏勧進の俊乗坊のお堂。
 正倉院を訪ねる。中には入れなかった。校倉造りの建物をじっくり見てきた。
 知足院お参り。謡曲「雲雀山」に「奈良の都の八重桜咲き返る道ぞめでたき」とあり、「春日竜神」にも「都の花も八重桜」とある。また、小倉百人一首の伊勢大輔の歌、「いにしえの 奈良の都の八重桜 けふここのへに 匂ひぬるかな」がある。 有名な奈良の八重桜が、この知足院にある。

 「天然記念物知足院奈良八重桜」の石碑があった。

 奈良坂の名前の付いたバス停があった。謡曲「百万」、「千手」、「采女」、「春日龍神」、「逆矛」 、「雲雀山」、「海士」などに「奈良坂」が出てくる。

 宮本武蔵も歩いた道。

 般若寺お参り。飛鳥時代、高句麗の僧によって開創され、のち聖武天皇が鬼門鎮護の寺として堂塔を建立したという。 奈良街道の要衝に位置するため、度々の兵火にみまわれ伽藍の多くを失ったと言う。

 国宝の楼門があったが、写真を忘れた。

 東大寺戒壇院をお参り。天皇始め多くの人が戒を受けた。
 氷室神社お参り。謡曲「氷室」に[それ仙家には紫雪紅雪とて薬の雪あり。翁もかくの如しとて。氷を供御に供へしより。氷の物の供御始まりて候」。春日山の北に氷室があり、そこに祀っていた神社を鎌倉時代現在の東大寺の近くに移した。

 境内に「鷹の井」がある。謡曲「野守」の語(かたり)に、飛火野での狩で、見失った鷹を尋ねている時、翁が水に写る木に止まった鷹を教えた。それで「はし鷹の野守の鏡得てしがな、思ひ思はずよそながら見ん」(鷹の行方を写す鏡を欲しいものだ。あれがあれば、あの方が自分を思ってくれるかどうか内々写してみようものを)と詠んだものだ。歌は恋歌だが、当代の賛歌である。

 飛火野を歩き、春日大社へ。お参り。謡曲に「飛ぶ火の野守」と言う言葉がよく出てくる。藤原氏の神さんだ。謡曲「春日龍神」があり。明恵(みょうえ)上人が入唐渡天の志を述べると春日明神が「この春日山こそ釈迦が法を説いた霊鷲山なのだ。今さら、釈迦入滅後のインドに行く必要はない」と制止し、やめになる、すじ。
 興福寺お参り。このお寺も藤原氏の寺。謡曲「海士(あま)」に「興福寺へ三つの宝を渡さるる。華源磬(かげんけい)、泗濱石(しひんせき)、面向不背の珠。二つの宝は京著し、明珠はこの沖にて竜宮へ取られしも・・・」とある。華源磬が国宝として今も興福寺にある。
 猿沢池の北西隅にある采女神社お参り。謡曲「 采女」に「始めは叡慮浅からざりしが、程なく御心変わりしを。及ばずながら君を恨み参らせて、この池に身を投げ空しくなりにけり」とある采女を祀る社だ。又、池の東南隅には、采女地蔵、采女の衣掛柳がある。采女の祭りも盛大にやっているとの事。
 開化天皇陵の西の西照寺お参り。謡曲「百万」のシテ百万の五輪塔の墓がある。近くに百万ヶ辻子町と言う町名がある。
 

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