15 長野 高遠町絵島囲み屋敷 中央構造線 溝口露頭 北川露頭 大鹿村博物館 安康露頭 2003/06/29
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長野茅野市から、152号線で、山には入り、南下する。152号線は、中央構造線に沿ってある谷間の国道である。中央構造線は、関東から九州にいたる古来からの大断層で、この辺りでは、茅野、杖突峠、高遠、大鹿、地蔵峠、上村、青崩峠、静岡県水窪、佐久間、愛知県豊川を通っている。断層の壊れた岩石を削って川が出来、浸食して、谷々を埋め、古来から人が住み着いていた。所々にその断層の境界が露出している場所があり確認に出かけた。 |
高遠の歴史博物館を見る。織田軍による武田氏攻略で、高遠城主としてこれを迎え撃った仁科五郎信盛が壮絶な戦いをした様子。江戸時代にこの地を治めた藩主内藤氏が着用した具足や藩経営に関わる資料などが展示。 |
絵島の囲い屋敷を見る。「絵島生島」の絵島だ。将軍の親の墓の代参の後、生島の芝居を見て、飲んで、帰宅時間に遅れた。当時としては、ままあることで済ますのが普通であったが、是が問題となり大勢の処分者が出た。江戸大奥の勢力争いが裏にあったらしく、絵島は高遠に流され、生島は三宅島へ流罪となる。 絵島は、この粗末な囲い屋敷で、30年近く生きた。途中、恩赦があり、生島は江戸に戻るが、絵島には及ばなかった。書物も、筆も駄目だったと説明があった。 |
有島生馬の歌碑があった。 「物語まぼろしなりし わが絵島 墓よやかたよ 今うつつの里」 |
川を見下ろす写真:右が西側の花崗岩などマグマの変成岩(三河の花崗岩、さば土、御在所の山、六甲山など)、左が、緑色岩、砂岩など大洋性の岩(二見浦の夫婦岩、大歩危など)。 上を見上げる写真:同じ場所を見上げているので、左右逆。冬、木々が枯れて地肌が現れた時は、もっと良く見分けが付きそうだ。 |
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大鹿村博物館の北の山で、大きく崩壊した山肌があった。今は公園にもなっているが、昭和36年に飯田地方の大豪雨で、大崩壊を起こした大西山と見た。大陸側の岩石、花崗岩は風化しやすく、土砂崩れの宝庫である。 |
飯田市の恵那山寄り、阿智村の昼神温泉に泊まった。戦後、鉄道敷設の調査の時、温泉が出たとのこと。鉄道は幻となったが、温泉は大きく発展した。 |
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16 岐阜 高山町並み 高山陣屋 2003/06/30
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最大の農民一揆と言われる、大原騒動を勉強してきた。後に大原騒動と名を付けられた、代官大原彦四郎紹正(あきまさ)は、幕府の意向を受け、検地を強行した。農民は我慢成らず、御法度の直訴におよび、大処分が行われた。石高は4.4万石が5.5万石に25%upした。農民側死罪13名島流し14名、その他総員処罰された。代官は郡代に昇格したが、その妻は自殺したとのこと。 本郷村善九郎は19歳であったが、死罪になる。しっかりした人だったらしく、辞世の歌が残っている。辞世の歌が残せない中で、残っている事は、みんなに慕われていたためだ。死んだ時、女房は妊娠していて、今もその子孫が健在だそうだ。 |
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27 長野 園原 2003/06/30
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昼神温泉から、10kmほど恵那山の方に入ると、園原がある。謡曲「木賊」の里である。以前来た時は、本当に山の村、山の道であったが、道も広くなり、難なく神坂神社まで、車で行けた。 |
鳥居の前に万葉集の信濃路の歌碑 「信濃路は今のはり道かりばねに 足踏ましなむ くつはけ我がせ」 |
境内には、防人の万葉歌碑 「ちはやぶる神の御坂に幣まつり いはう命は 母父がため」 があった。 |
凌雲集にある、「渉信濃坂」の 漢詩碑文もあった。 信濃坂をわたる 作者は渡来人の末裔とのこと。 |
「園原や伏屋に生ふる 帚木(はわきぎ)の ありとは見えて あはぬ君かな」 新古今集 坂上是則 |
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「この道や 行く人無し 秋の暮れ」 芭蕉 「かがやきの ますばかり けふの月」 貞池 |
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