14 北国脇往還 河毛 郡上 馬上 高月 木之本 滋賀 16km 2007/02/11
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大垣までは晴天。伊吹山は、頂上が見えないが、少し低い山は、よく見え
たが、関ヶ原にはいると、雨で湿っている。河毛駅は、雨。
小谷城址まで、タクシーを頼んだが、30分以上待つとの事。 雨も小雨になり、小谷城は諦め、駅から東に歩いて、北国脇往還を北上することにした。 雪国は、雪が降っても電車は動くんだと思っていたが、遅延、中止があるのだと初めて知った。遅れは、新幹線だけと思っていた。駅に、目に付く張り紙があった。駅員は居なかった。 しかし、雪が激しければ止まって、当たり前でした。 |
郡上(ぐじょう)宿。大谷市場跡。
浅井氏小谷城の時代、此処が経済の中心だった。後、秀吉の長浜城築城に伴い、長浜に移ったという。 右:高札場跡。 |
首無し地蔵が祭られている。
郡上の集落は、街道沿いに在るが、今は、静か。 |
鳴鶴学校跡 明治13年9月から明治19年7月まで、の石碑。現在、お寺。
調べたが、判らない。書家日下部鳴鶴(めいかく)と関係があるのかな。 このあたりの人びとは、この冬の雨を、「湖北しぐれ」と言っているという。道を尋ねた時、地元の人が親切に教えてくれた。良い言葉だ。 時雨は、秋の季語だった。 |
馬下(まけ)の集落。「馬下の水車」という水車は回っていなかったが、水路の水は多かった。
雪を流すための水と思う。 賤ヶ岳の合戦での「秀吉の美濃大返し」。大垣から木之本、13里を5時間で15千の軍隊を移動させたという。 馬下は、秀吉が休憩した。 秀吉が寺の住職に「ここは何村か?」と問い掛けると、住職は機転をきかし「北マケ村に御座います」と言うと、秀吉は「北負けとな」と言って大笑いしたという。 |
雨の中、傘を差し歩く。強い雨ではないので、服は濡れない。
高時川を右岸に渡った所からの雨森の集落。 |
雨森芳州庵とその前の水路と水車の跡。
芳州は、江戸中期の儒学者。朝鮮との外交に活躍した。中国語、朝鮮語にも堪能だったという。
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雨森芳州庵内部と庭。
芳州は、晩年、自宅に私塾を設けて著作と教育の日々を過ごし、子供の教育に力を注いだと、説明があった。 |
井口の井口弾正邸跡の石碑。
浅井家重臣の武将。浅井長政の母は弾正の娘。 弘法水(弘法さんの池)の石碑。 弘法さんが杖を突いたら、水の湧く池となり、村の人達を潤したという。 |
木之本。北国街道と北国脇往還の分岐点。石碑あり。
みぎ・京いせみち ひだり・江戸なごやみち とある。 2時。遅い昼食。進められて、猪の肉のラーメンを食う。 |
木之本地蔵。
6mの地蔵菩薩像。目の仏と昔から言われていた。 |
木之本 札の辻 の石碑。木之本地蔵の参道。
1時間2本の帰りの電車は、結構な人が乗る。長浜駅からは、立った人もいた。 米原では、ほとんど西行きの人で、東行きは、極めて少なかった。 JR東海もサービス良くなった。6両編成の豊橋行き。 |
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