34 明願寺(伊賀城趾) 井田城趾 細川御前田城趾 細川城山城趾 岩津城趾 信光明寺 西阿知波城趾 愛知 8km 2004/10/27
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今回、尋ねた城趾は、いずれも、中世から戦国時代までの、規模の小さなお城だったようだ。 岡崎城から2kmほど、北にある伊賀八幡宮の道を隔てた向こうに、明願寺がある。 この辺りが、伊賀城趾とのことであるが、現地には、それらしい物は何もない。明願寺の説明板にも、お城の説明はなかった。 松平康安の築城と言う。康安は岡崎城を築いた西郷氏の一族で、西郷氏は松平清康(家康の祖父)に城を明け渡した。康安と子の重成の二代が居城した。 |
明願寺の境内に句碑があったが、読めなかった。 |
伊賀城趾の北、500m程の丘陵地が、低地(矢作川の流水域)に掛かる所に、井田城趾の碑があった。
際には、城山稲荷があり、城山公園の一角にある。 松平家譜代として代々仕えてきた酒井家の居城で、徳川四天王の一人、酒井忠次は、その6代目である。 |
岡崎市細川町の南に「於御所(おごそ)」と言う地名がある。この辺りは、矢作川の流域で、小高い丘のある地形で、昔から人が住み着いたらしい。
矢作河左岸には、古代から平安時代の遺構や遺物の於御所、生平、前田の遺跡がある。その背後の丘陵には岩津、天神山、中ノ坂古墳群など50基ほどの古墳があるとの事。
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岡崎市細川町字御前田に細川城趾がある。248号線が矢作川に
かかる手前、左に
入ったところ。ほんの少しの高台。今は、城らしい物は何もない。石碑のみ。
築城13世紀。
1221年の承久の乱後に三河守護となった足利義氏が、一族の義季 (よしすえ)を細川の地に配し、以後、細川氏を名乗った。 細川ガラシャ、元総理大臣細川護煕氏の先祖。 |
蓮生院お参り。本堂は、焼けて、再建してないそうです。お寺の隣のこんもりした高台が細川城山城とのこと。
お寺さんの奥さんが庭掃除をして見えたので、細川城山城の城主だったと言う、松平久助さんのお墓をお参りしたいとお願いしたところ、お墓まで案内してくれた。 なお、写真は許可を貰って撮りました。 |
写真左の右のお墓が、松平久助のお墓。卒塔婆にも、名前がはっきりと記載してあった。供養が続けられているという事だ。
安城福釜松平家2代 細川城主 俗名 松平久助信乗 天正元年(1573年)没 と書いてあった。 左のお墓は、島根石見守代官 俗名 松平久助信行 享保10年(1725年)となっていました。 右の写真は、元総理大臣細川護煕(もりよし)氏の墓参記念碑でした。 |
写真左の右の五輪塔は、細川氏始祖のお墓。
左は、このお寺の初代のお墓だそうです。やはり足利一族だった。 写真右 潮止めの松 三河湾の潮は、ここまで上がってきた。潮止め松は、弁天とありて、数百年地を這う如くに潮を止めたそうだ。 |
蓮生院の直ぐ南の高台が、細川城山城趾。築城16世紀中期。 |
岩津天神の西を走る東名高速道路の向川の小高い丘が岩津城趾だ。「私有地につき立ち入り禁止」の看板が立てられていたので登らなかった。築城1527年。
松平氏3代の信光が築城した。その後、安祥城に移るまでの約50年間、松平宗家の拠点となった。
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信光明寺お参り。宝徳3年(1451年)城主信光が、祖父親氏、父泰親の菩提を弔うために建てた寺。
芭蕉天神として知られている。 |
西阿知和町の小高い丘の上に、大照院と言う寺があり、ここが西阿知和城趾。城の気配は、全然ない。 |
松平氏三代の信光が岩津城主となった時、弟の信季が阿知和城主となり、後に阿知和氏を名乗り代々居城した。 築城15世紀初期。 |
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