20 上賀茂神社 神光院 大将軍神社 常照寺 光悦寺   京都

16km    2005/04/10

京都奈良


 

 京都三弘法の神光院を訪ねた。

 久しぶりに、米原まで、新幹線。後、東海道線快速(姫路の向こうの網干から長浜までの快速電車)に乗り換え、京都へ行った。8時半に到着。

 地下鉄北大路駅で降り、鴨川に出て、堤防を北に歩いた。途中、北山大橋と北大路大橋の中間ほどにある飛び石を飛んで、向こう岸、左岸に渡った。

 鳶が、幾つか飛んでおり、時々、川面に餌を捕まえに降りてくる。餌が何であるか解らなかった。

 釣している人もいる。しかし、魚が泳いでいる気配は感じられない。何が可笑しいが、何が可笑しいか解らなかった。

 左岸の 紅枝垂れ桜。
 左:染井吉野

 右:山桜 かしら?

 ユキヤナギ。

 レンギョ。

 ヤマブキ。

 上賀茂伝統的建物群保存地区の家並み。室町時代から、社家(しゃけ)の人々の住まい。

 上賀茂神社の御手洗川(みたらしがわ)のお祓いの水は、明神川となり、この町の川に。この下流は、農業用水となる。

 きわめて、合理的な水の使い方だ。

  建物群保存地区にある、藤木社(ふじのきのやしろ)。明神川の守護神、上賀茂神社の末社。

 後ろの楠は、樹齢500年。この地のシンボルとして崇められてきたとのことです。

 落ち着いた町並みに合った佇まい。

 社家の町の桜。
 社家の井關家。
 社家 西村家の庭園。

 明神川の水を取り入れ、”曲水の宴”のための小川とした後、元の明神川に、汚さずに戻しているとのこと。

 上賀茂神社 楼門。

 楼門を入ると、本殿がある。

 特別拝観として、本殿を公開していた。説教を聞いて、お祓いを受けて、参拝してきた。

 細殿(拝殿)前に立砂(たてすな)とよばれる円錐形の盛り砂が二つ並んでいる。

 ご神体の神山を表している。「清めの砂」は、この立砂が起源だそうだ。

 4月第2日曜日、賀茂曲水宴が 渉溪園で行われるとのことで、準備中だった。

 短歌の永田和宏、河野裕子両氏も出席するとのことで、顔を見たかったが、神光院参拝の目的があるので、今年は諦めた。

 

 

 末社の衣通姫(そとおりひめ)神社。

 日本書記に、允恭天皇の妃。姉の皇后の妬みを受け、身を隠したと言う。歴史上の人物としてよりも、むしろ、和歌三神の一人として和歌の世界の中で知られている古代の女性である。

 紀貫之の「古今和歌集」の「仮名序」の中の文章に、小野小町の歌を評して、 「小野小町は古の衣通姫の流(りゅう)なり。あわれなるようにて、つよからず、いわば、よき女のなやめるところあるに似たり。つよからぬは女の歌なればなるべし」 とある。

 しかし、この文章は誤解されて、もっと広い意味で、小野小町と衣通姫とが似ていると解釈するようになる。

 また、日本書紀が衣通姫を絶世の美人であると述べているために、小野小町もまた類稀(たぐいまれ)な美人であったと理解されるようになる。そして、深草少将が、拒絶されてもされても百夜の間、小町の家を訪ねたと云う物語にまで発展してゆく。

 一方、小野小町が優れた歌を数多く作っているので、衣通姫の歌もまた抜群に優れたものと考えられるようになり、遂には、和歌の神様として神格化され、和歌三神の一人にまでなる。

 しかし、日本書紀が書き留めて、残されている衣通姫の歌は僅かに二首である。

  「わが背子(せこ)が来べき宵なり 小竹(ささ)が根の蜘蛛(くも)の行い 今宵(こよい)著(しる)しも」

  「常(とこ)しえに 君に遇えやも いなさとり 海の浜藻の寄る時々を」

 紀州和歌浦の玉津島神社の神様である。

 謡曲「草子洗小町」、「関寺小町」に、その名が出てくる。なお、和歌三神は、色々な組み合わせがあるとのこと。

 境内の馬酔木(あせび)。

 馬酔木は、毒の花。鹿、馬は絶対に食べないそうだ。

 大将軍神社お参り。

 昔、平安京造営の際、都を守るため、4隅に大将軍を祀ったために、付いた名前だと言われているが、あまり定かでないとのこと。

 神光院お参り。

 京都三弘法の一つ。当時、仁和寺に比べると、小さなお寺。

 弘法大師の木像が本尊とのこと。

 弘法大師像。
 浄土宗西方寺お参り。

 五山送り火の舟形のお寺さん。

 常照寺お参り。日蓮宗のお寺。本阿弥光悦の寄進で建てたお寺。

 寛永三名妓天下第一と言われた、吉野太夫が寄進したと言う、朱塗りの山門。

 教養のある花魁がいたようです。いまほど、卑しい商売ではなかった。当たり前の商売だったと思う。

 吉野太夫の墓。
 曹洞宗源光庵。工事中で、平成18年になってから公開。
 日蓮宗光悦寺。

 家康から、この地を貰い本阿弥光悦が、一族、工匠を引き連れ移り住んだ所。

 光悦は、刀剣鑑定、書、陶芸、絵画、蒔絵にも優れ、指導者としても、活躍した。

 光悦の死後、お寺にした。

 本阿弥光悦については、ドラマ「武蔵」で、初めて知った人物でした。

  太い竹の組み合わせた、光悦垣。

 茶室大虚亭。

  鷹峰三山の内、鷹ガ峰。ここの庭の借景。

 本阿弥光悦の墓。

 いくつもの茶室があった。 ここで、毎年、盛大な茶会が行われるとのこと。

 帰りは、京都駅前の例のラーメンを食べて帰った。新幹線には、乗らずに帰った。

 

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