23 伊賀八幡 昌光律寺 弘正寺 能見神明社 貞寿寺 宝福寺 随念寺 大友神明社 北野廃寺跡 矢作神社 愛知 11km 2004/04/16
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3月19日と4月16日、岡崎市市内の神社、お寺の参りをしてきた。
矢作川右岸の大友町は、壬申の乱の負け組の大友の皇子の大友だと言うことを初めて知った。地元のことについても、知らないことがまだまだ、沢山あるようだ。 これを調べて行くのは、これからの楽しみだ。 |
岡崎城の北側一帯は古くから能見ヶ原と呼ばれていた。12世紀頃、矢作の里の長者がこのあたりで、月に6度の能狂言を催したところから、このあたりを能を見るところ「能見」と名付けられたと言う。その後、能見の東側が能見町と呼ばれ岡崎宿の一部となり、西側は西能見と呼ばれ、現在の元能見町となった。 当たり前の話だが、お寺、神社のある場所は、水に浸からない高台にある。 |
七福神とは「福徳を授けてくださる七人の神様」のことで、恵美須(律義)、大黒天(裕福)、布袋尊(度量)、福禄寿(人望)、毘沙門天(威光)、弁財天(愛嬌)、寿老尊(寿命) の総称。 その福禄寿(ふくろくじゅ)のお寺さん。また、三河三十三所観音霊場第一番札所として有名。 |
この東大友は、往古入海に沿いたる処にして、壬申の乱(673年)大津の軍利あらず、時に大友皇子御舟にて南海を巡り、ひそかに伊勢の神宮に詣で御玉串を請け更に進んで三河国碧南湾に到り沿岸の地に駐り給う。村人相謀り皇子の為に館を竹林の中に造りて皇子を住ましめ奉る。今に其処を丸薮と言えり。皇子祠を建てて天照皇大神を祀る。当神明社これなり。かくて皇子の御遺跡たるを以て村人此の地を大友と称するに至る。後村人等祠を建て大友皇子を祀り大友神社と称す。と看板にあった。 |
五言 侍宴 皇明光日月 帝コ載天地 三才並泰昌 萬國表臣義 皇明日月と光(て)らひ 帝コ天地と載せたまふ 三才並泰昌 萬國臣義を表わす
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五言 述懷 道コ天訓を承け 鹽梅真宰に寄る 羞づらくは監撫の術無きことを 安(なに)ぞ能く四海に臨まむ |
中門、塔、本堂、講堂、僧坊の跡があり、礎石があった。 東西126.5m、南北146mの伽藍を直線に配した四天王寺式の寺院だった。塔は法隆寺五重塔に匹敵するとのこと。 |
塔跡 |
講堂跡 |
土塁跡 |
十二代景行天皇の御代に日本武尊が東夷御征伐の時軍神として素戔嗚尊をお祀りし広前で矢を矧ぎ給いしため社号を矢作神社と称した。と説明があった。 ちょっとした竹のやぶがあり、「矢竹やぶ」と言われている。また、新田義貞が足利尊氏と戦った時、矢作神社に戦勝を祈った時、此の石がうなったそうだ。 これはきっと神のご加護に違いないと勇気づけられ、見事勝ったそうだ。 以後、この石を「うなり石」という。 |
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