28 斎宮 古市 三重 14km 2004/06/13
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能「絵馬」の話は 時の帝の臣下が勅使として斎宮に着いた。今夜は節分で絵馬を掛ける行事があるからこれを見ようと逗留していると、老夫婦が出て来て、雨の占方を示す黒絵馬と日照りの占方を示す白絵馬と互いに掛け争った。が、結局、万民快楽の世にしようという事になり、並べ掛けることとなった。老夫婦は、伊勢の神が現れ来た 者だ、と言って消え失せる。 やがて、夜になると、天照大神が天鈿女命(あまのうずめのみこと)等を連れて現れ舞を舞って、やがて、天の岩戸に隠れ入る、と言う話。お目出度い曲である。能には、神社仏閣を褒めあげて、天下泰平を願う形式の能が、沢山ある。これもその1つ。 説明文によると、絵馬の行事は、大晦日に斎宮で行われていたと言う記録ありとの事。広くその様な事が行われていたらしい。 |
また、この自然石の灯篭は、この村の氏神の常夜灯だったと説明があった。自然石を使う事は、いろいろ意味があるのだろう。不勉強で知らない。 |
斎宮は、飛鳥時代(700年代 天武天皇)から、660年、南北朝(1300年代 後醍醐天皇)まで続き、鎌倉幕府の滅亡、室町の戦乱で中止となっている。 天皇の行事であり、しっかりとした書かれた物が残っているんだなと思う。 |
右 小袿(うちき)、十二単の略装。 直衣(のうし 男の衣裳)。 十二単 や直衣の試着が出来るそうだ。 |
盤双六(ばんすごろく) いろんなルールがあり、貴族から庶民までよく遊んだそうだ。 |
その100分の1の模型があった。1辺120mの碁盤状の区画が整然と並んでいた。模型の道も12m幅の10分の1になっていた。 模型は、新しい素材で出来ていた。天気にも強く、褪せない物だそうだ。 |
中 役所 右 社 その奥は倉庫群 基礎の石が無い、掘立柱で、瓦のない屋根だった。 伊勢神宮は神さん。新興宗教である、仏教を嫌ったためとも言う。瓦は仏教と共に入ってきた物。 |
柵のある、斎王宮址の石碑。伊勢神宮の管理地。 発掘の結果と少し違っているらしい。斎王の居た内院は、近鉄の駅の南辺りと言う。 |
「文字から判る斎宮」の部屋 斎王の誕生から群行(ぐんこう)、斎宮の暮らし、都に戻ってからの生活。又、伊勢物語、源氏物語の展示。 「ものから判る斎宮」の部屋 出土遺物を中心に。 「映像展示室」の部屋 斎王群行のハイビジョンの映像を見てきた。 |
伊勢市駅から伊勢街道を歩く。伊勢神宮外宮まで行き、「岡本の里−この町東は小田橋、西は高倉山なり・・・」の小田橋を目指したが、一向に現れない。世義寺(せぎでら)の看板が現れた。どこかで道を間違えたようだ。
地元の人に何人かに聞いて、漸く、古市街道に出た。庭球場の前だった。 「間の山お杉お玉」の碑を探したが、大分戻らなければならない様だので諦めた。「間の山お杉お玉」は、三味線を弾いて参詣客から金を貰っていた。往来の客が金を投げると上手に避けたそうだ。弥次さん喜多さんも投げたが当たらず、悔し紛れに石を投げたら、バチで跳ね返され逆に弥次さんに当たってしまう始末。小説「大菩薩峠」にも出て来たように思う。 |
古市を知らないと気づかない町並みに成ってしまっている。 また、古市は、江戸の吉原、京都の島原と並んで三大遊郭の一つと言われた。古市の 有名な女郎屋、備前屋跡の石碑あり。 |
この古市のお医者、孫福斎(そんふくいつき)で、遊郭油屋で相方のおこんを、阿波の商人に横取りされ、面白くなくて帰ろうと、刀を受け取り、脅すつもりで抜いた刀で客や奉公人を殺傷してしまい、逃げて自害してしまった。 歌舞伎では、斎が貢に変わっているし、筋も変わっているとの事。「伊勢音頭恋寝刃」は、未だ見ていない。 斎は27歳だった。おこん16歳、長生きして49歳で病死したとあった。二人の墓、比翼塚(ひよくづか)が、大林寺にあった。右が斎、「光屋貞陰居士」、左がおこん、「増屋妙縁信女」。 |
創業時期は判らないらしい。弥次さん喜多さんの話の中にも「麻吉」が出ている。 |
入場料無料は昔のまま。展示品も、変わりなく、川柳に「伊勢参り大神宮へもちょっとより」とうたわれた古市の資料が展示してあった。 猿田彦神社に着いた時は、15時を過ぎていたので、おかげ横丁、内宮は止めて、バスで駅に戻る事にした。 |
駅は懐かしく眺めた。 |
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