31 津屋川 圓満寺 庭田貝塚 彫刻 多度大黒屋 多度神社 岐阜 三重 24km 2004/09/26
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今年は、彼岸花の花が早いとのことでしたが、予定より、2週間遅れ出かけてみた。彼岸花は既に枯れていた。しかし、津屋川の流れは、彼岸花の咲いた輪中堤防から見ると、奥入瀬の流れのように、自然の流れを保っていた。東海地方にこのような流れがあるのを始めて知った。 |
普通、ワンマンカーでも、運転手が、切符を全員回収している。 この駅は、無人駅。 |
諏訪神社もあり。 |
左岸は立派な堤防。右岸は自然のままで堤防らしい物はない。その右側は、緩やかな傾斜地で、農地、果樹園、それに人家が散在している。伊勢街道は、多分水の浸からない高みを通っているのだろう。 |
後で、地元の人に聞いたが、津屋川の左岸は輪中の堤防だそうだ。揖斐川本流と津屋川から身を守る堤防だった。立派な堤防だ。この堤防の補強工事の看板もあった。まだまだ、補強の必要があるらしい。 写真の左が、左岸。 |
ハリヨ:トゲウオ科の淡水魚。体長4〜5センチメートルで、生息分布は滋賀県湖東、湖北地方、岐阜、大垣、三重県 東北部に限られ、水源に水温13〜15℃の湧水を持ち、年間の水量もほぼ一定した渓流に生息する。 |
川幅が狭まり、ごく普通の川に成りだし、見事な川の景観が途切れた所で、次の駅、駒野駅へ行こうと集落の方に向かうが、一向に駅らしい物が見えない。仕事中のお百姓に聞くと、「まだ、半分だ。後1時間は掛かる」と言われた。後で地図を調べてみたら、美濃津屋駅と駒野駅の距離は6kmはあった。 |
天平年間に行基菩薩により創建されたと言う。建武の乱、関ヶ原の合戦により兵火で焼けたが、江戸時代に入り、大垣藩戸田一閑氏信公の援助を得て現在の地に再建されました。 その時より浄土宗に属し、今日に至って居るとのこと。山号「三輪山」、院号「一乗院」、寺号「圓満寺」と言う。 |
北村西望 「将軍の孫」 北村治禧(はるよし) 「のどか」 古賀忠雄 「西郷隆盛」 |
駒野駅のホーム。この駅には、駅員が居た。 |
食事処を探すが、無し。とにかく、多度神社に向かう。途中、寿司屋さんが店を開けていた。昼食を取る。今から多度山に登るのかと聞かれる。昼からでも登る人があると言う。 |
昔、鯉料理をここで食べたことがあった。綺麗な庭があった。鯉の硬い骨を思い出した。 |
多度神社は初めてかな、と、改めて思う。 |
天照大神と須佐之男命の子の第3皇子です。「北伊勢大神宮」とも称され、「お伊勢まいらばお多度もかけよ、お多度かけねば片まいり」とも謡われ、庶民の伊勢参宮の折には当大社へ必ず参拝した事が窺われる。 右側には、天目一箇命(あめのまひとつのみこと)が祀られていた。 天照大神が天の岩戸に隠れた際に、刀、斧を作り活躍した神様で鍛冶屋の祖先神です。 北伊勢地方を支配した豪族が氏神としてお祀りした神様で、産業開発、商工業繁栄の神として仰がれている。又、御社殿には扉を設けない珍しい構造とのこと。 |
芭蕉が参詣の折りに詠んだと言う。地元の俳人達が建てた塚だそうだ。 「宮人よ 我名を散らせ 落葉川」 芭蕉 |
多度神社からの帰り道は、山の中腹の道を下った。途中、柚井(ゆい)城趾の説明書きがあった。土地は私有地のため、入るなと 書いてあった。 長島一向一揆に加勢した城の1つ。やはり、信長にやられているとの事。 |
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