27 梅蔭禅寺 次郎長生家 船宿末広 次郎長宅跡 壮士の墓 フェルケール博物館 清水港   静岡

14km       2004/05/29

その他


 

 幽香山梅蔭禅寺

 清水の次郎長の菩提寺お参り。鉄筋のお寺に変わり、昔の面影はない。

 次郎長は明治に入り、清水港開港、三保、日本平、富士裾野の開墾などに尽力。山岡鉄舟、榎本武揚とも付き合いがあったと言う。

 次郎長等のお墓お参り。ここは以前のままだった。

 清水の次郎長、本名 山本長五郎 天寿全う行年28歳

 仙右ェ門 行年57歳  石松 行年28歳  1代てふ、2代てふ、3代てふ

 小政 本名 吉川冬吉 後養子 山本音五郎 行年34歳

 大政 本名 原田熊蔵 後養子 山本政五郎 行年50歳

 愚庵歌碑あり。

 「ふじかねにのぼりて四方の国みるもまずふるさとの空をたずねて」  天田愚庵(あまだ・ぐあん

 天田愚庵は、15歳の時、戊辰の役に参加、敗れて仙台に敗走した。この時、父母と妹が行方不明になってしまい、天田愚庵は苦しむことになる。

 山岡鉄舟の世話になったり、清水次郎長の養子になるなど、数奇な人生を歩んだ。徐々に父母妹を「内に求める」ようになり、参禅修行し京都に庵を結び41歳の時、出家して愚庵と称するようになる。

 残された540余首の短歌が残っていて、正岡子規とも親交があった。 平成5年に建てたとあった。

 次郎長の銅像。

 又、次郎長遺物館があり手回り品などの展示してあった。

 日の出埠頭・港橋の近くの静岡市清水美濃輪の次郎長通り商店街に生家があった。

 当時使っていた道具や井戸もそのまま保存され、写真や資料も展示があった。

 明治になってから、次郎長が開いた船宿の「末広」があった。次郎長は「末広」で死んだと言う。

 実際にあった場所は、もう少し海よりの場所にあった。

 次郎長の女房、3代てふが取り仕切ったと言う。次郎長は、よい「港のおじさん」に成っていたと言う。

 官軍に襲われ戦死した咸臨丸の乗組員を葬った場所。官軍を恐れてだれも死体の始末をしなかったが、次郎長がやらせたと言う。

 

 フエルケール博物館。清水港港湾の博物館。

 港の歴史、荷役作業、道具、輸出物品などの展示説明があった。

 最近の船の底は平だが、昔の和船は底が丸かったそうだ。安定しない構造だったらしい。始めて「そうだな」と認識。

 港湾巡りの船が就航していた。

 また、人工の砂浜があって、子供達がはしゃぎ廻っていた。

 エスパルスドリームプラザ。

 食い物飲み物屋、魚屋、雑貨屋、映画館などが入った最近流行の施設。よく混んでいた。

 駅までの無料バスが動いていた。

 SEA SIDE LIVE をやっていた。

 岡崎から来た「ゆうみ」と言う紹介で、女の歌手がギターを持って歌っていた。

 JR清水駅の前に万葉集の防人の歌が歌碑になっていた。

 「たちばなのみおりの里に父をおきて道のながては行きかてぬかも」  丈部足麻呂

 防人の歌。「たちばなのみおりの里」は清水立花の地と言われ、九州の地に向かう男の故郷に残した父を思いやって詠んだ歌。

原文:「多知波奈能 美袁利乃佐刀尓 父乎於伎弖 道乃長道波 由伎加弖<努>加毛」

 

以    上  TOPへ戻る